會津壹番館
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會津壹番館 / 野口英世青春館
玄関前
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情報
旧名称第六十国立銀行若松支店[1]
会陽医院(渡部医師)[1]
前田眼科[2]
用途喫茶店資料館[1]
旧用途銀行診療所[1]新聞販売店電器店、オートバイ販売店[3]百貨店倉庫[4]
建築主第六十国立銀行[1]
事業主体個人[3][4]
管理運営個人[3][4]
構造形式土蔵木造[1][3]
状態完成
階数2階[3][4]
駐車台数2 - 3台[1]
竣工1884年[5]
開館開所1976年(喫茶店として)[6]
所在地965-0878
福島県会津若松市中町4-18[1]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度29分51.45秒 東経139度55分38.37秒 / 北緯37.4976250度 東経139.9273250度 / 37.4976250; 139.9273250 (會津壹番館 / 野口英世青春館)座標: 北緯37度29分51.45秒 東経139度55分38.37秒 / 北緯37.4976250度 東経139.9273250度 / 37.4976250; 139.9273250 (會津壹番館 / 野口英世青春館)
文化財会津若松市歴史的景観指定建造物[5]
指定・登録等日1997年(平成9年)度[5]
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會津壹番館(あいづいちばんかん)は、福島県会津若松市中町にある喫茶店。若き日の野口英世が左手の手術を受けた後、書生として住み込みで働いた会陽医院(かいよういいん)の建物を改修し、往時の外観を復元した店舗である[4]。2階には喫茶店と同じ経営者が運営する、野口英世青春館(のぐちひでよせいしゅんかん)がある[4]。野口英世ゆかりの歴史性と景観性を兼ね備えた建築物として、会津若松市歴史的景観指定建造物(第3号)に指定されている[5]
歴史
近代

1884年(明治17年)に第六十国立銀行若松支店として建築されたが、同支店は5年で閉店した[1]。代わって、1891年(明治24年)に河沼郡野沢村(現・西会津町)の渡部鼎が第六十国立銀行から[4]1,600円で購入し、会陽医院を開院した[7]。渡部はアメリカで医学を修めた医師で、福島県全体を見てもまだ西洋医が少なかった時代にあって、会津若松近在で評判になった[8]1892年(明治25年)、左手の手術を受けるために野口清作(後の野口英世)が来院し、翌1893年(明治26年)に高等小学校を卒業した野口は医師になるべく会陽医院に入門した[9]。書生となった野口は、医術開業試験を受験するために上京するまでの3年間を会陽医院で過ごした[10]。野口を送り出した後も、会陽医院は書生の受け入れを続け、後輩書生は「俺は第二の野口英世になる!」という決意表明を雨戸に書き残した[11]

会陽医院は後に移転するが、街の中心部にあったことから、建物は3代にわたって医院として利用され、ここで開業した医師は富を築いて別の地に医院を建てた[1]。例えば1912年(明治45年)にこの地で開業した前田眼科は、1917年(大正6年)に大町へ移転、1995年(平成7年)に中町へ戻り開業者の孫が医業を続けている[2]
現代

第二次世界大戦後は、新聞販売店電器店オートバイ販売店などとして利用され、それぞれの必要に応じて内外装ともに改造された[3]。また、ガソリンスタンドを設置するため、接続していた蔵が切り離され、移動した[3]。その後、近くの百貨店の倉庫となった[4]。ここに野口の足跡をたどるために訪れた照島敏明は、先に訪れた野口の故郷・猪苗代町では野口英世記念館を設けて野口の遺品や生家を大切に保存しているのに対し、会津若松市では野口のことは忘却され、旧会陽医院が薄汚れた倉庫になっていたことに衝撃を受け、倉庫の所有者を探し出し、自らに貸してほしいと直談判した[4]。照島は東京の出身で、長髪ジーパンという格好をした若者だったこともあり[4]、所有者の説得に半年を要した[3]。そして、会津に来てから1年となる[4]1976年(昭和51年)に[6]照島は喫茶店・會津壹番館を開店し[4][6]1982年(昭和57年)に2階に野口英世青春館を開館した[6]

隣接していたガソリンスタンドが1982年(昭和57年)に撤去されたのを契機として、ファサードを覆い隠していた部分を取り払い、古写真を基に黒漆喰の外観を復元した[3]。内部は面積を確保するために間仕切りを除去したり、デコラ化粧合板)を取り払って天井の梁を見せるようにしたりした[3]。これらの改修には10年を費やし[4]、照島自らの私財を投じた[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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