最後の戦い
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、 リュック・ベッソン監督による映画について説明しています。C・S・ルイスによる『ナルニア国物語』の一作については「さいごの戦い」をご覧ください。

最後の戦い
Le Dernier Combat[1]
監督リュック・ベッソン[2][注 1]
脚本Pierre Jolivet[注 2]
リュック・ベッソン[2]
製作Constantin Alexandrov[注 3]
Pierre Jolivet[注 4]
出演者ジャン・ブイーズ(Jean Bouise)[2][3][4]
フリッツ・ウェッパー(Fritz Wepper)[2][3][4]
ピエール・ジョリベ[3][4]
ジャン・レノ[2][4]
音楽エリック・セラ[2][1]
撮影カルロ・ヴァリーニ(Carlo Varini)[2][1]
編集Sophie Schmit[注 5]
公開 1983年4月6日[1]
1985年6月1日[1]
上映時間90分[2]
(米国版:93分[3]
製作国 フランス[2]
言語フランス語
テンプレートを表示

『最後の戦い』(さいごのたたかい、原題:Le Dernier Combat[注 6])は、リュック・ベッソン監督による1983年の映画作品[2]
概要

リュック・ベッソン監督(1959年 - )のデビュー作品[5]。ベッソン監督はパリとハリウッドで映画の助手を務めながら映画作りを学び、24歳で初めて発表した長編が本作である[5]

白黒作品で、作中には台詞が一切ない[2][4][注 7]。これは大気汚染によって、声帯の機能を喪失して発語ができなくなっている、という設定によるもの[3][4]
あらすじ

気候変動の結果、文明が荒廃した近未来が舞台[2][4]。生き残った4人の男が、1人の女をめぐって戦う[2]
製作前夜
製作会社の創設

1959年生まれのリュック・ベッソンは、15歳の頃から映画に興味をもち[6]、18歳で本気で映画の道を志すことを決めた[7]。まもなく『Le Petite Siren[注 8]』という短編を8,000フランで完成させた[7][注 9]

フランスでは、文化省の中央映画庁(CNC,Centre National du Cinema)が映画産業への補助金を管轄していた[8]。同庁に登録するためには法人格が必要で、ベッソンは『Le Petite Siren』を登録するため一人で映画製作会社「ル・フィルム・デュ・ルー」(Les Film du Loup)をたちあげた[8]。ベッソンは、親戚の遺産を相続した友人から5万フランを借り、これを担保としてUBP銀行(Union Bancaire Privee)へ映画製作のための融資を申し込んだが、にべもなく断られた[8][注 10]

その後、ベッソンはパリで映画関連の職に就きながら[注 11]、短編や広告、記録映像などの製作にも係わり[10]、はじめは助手として、のちに第2助監督を任されるようになった[注 12][9][11]
主要スタッフとの出会い

この頃ベッソンは、映画・演劇・音楽活動をしているピエール・ジョリヴェ(Pierre Jolivet)という友人を得た[11]。ジョリヴェは自身のレコードの売り上げが芳しくないことを悩んでおり、ベッソンはミュージック・ビデオ製作を提案した[13]。1980年に16ミリフイルムで撮影したこのビデオクリップは、世に出たものとしてはベッソンの初作品となった[9][13]。そして、撮影にギタリストとして参加していたエリック・セラと懇意になった[9]

1981年には、ラファエル・デルパール監督の『Les bidasses aux grandes manoeuvres』で助監督となり、出演していたジャン・レノと知遇を得た[14]。また同じ年、TV向けのフォーミュラ2の記録映像の仕事に携わり、撮影のカルロ・ヴァリーニや編集のソフィー・シュミットと知り合った[14][15]
『最後から二番目の男』

この頃までに、ベッソンは自身の長編デビュー作として『サブウェイ』の構想をおおよそかためていた[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef