『最後の審判』オランダ語: Het laatste oordeel
英語: The Last Judgement
作者ハンス・メムリンク
製作年1467-1471年
種類板上に油彩
寸法242 cm × 360 cm (95 in × 140 in)
所蔵国立美術館、グダンスク
『最後の審判』(さいごのしんぱん、蘭: Het laatste oordeel、英: The Last Judgement)は初期フランドル派の画家ハンス・メムリンクに帰属される三連祭壇画で、1467年から1471年の間に制作された。本来、1465年にメディチ家銀行のブルッヘ支店長アンジェロ・ターニ (Angelo Tani) によりフィレンツェのバディア・フィエゾラーナ (Baidia Fiesolana) 教会の礼拝堂のために委嘱されたものである[1]。作品はかつて、ヤン・ファン・エイクを初め多くの初期フランドル派の画家に帰属されたこともあるが、1843年になってメムリンクに帰属された。この帰属は幅広く受容され、現代でも研究者により確認されている[2]。本作は現在、ポーランドのグダンスク国立美術館に所蔵されている[1][2]。 本祭壇画の委嘱は、1466年にターニがカテリーナ・タナッリ (Caterina Tanagli) と結婚した時期と重なるもので、作品は夫妻の最初の娘が誕生し[1]、トンマーゾ・ポルティナーリ
歴史
本作が制作された当時、イギリスとハンザ同盟間には戦争が起こっていた[1][2]。この作品はポルティナーリにより雇われたブルゴーニュ公国のガレー船「聖マタイ号」にほかの積み荷とともに載せられ[2]、船はイギリスのサザンプトン経由でイタリアのポルト・ピサーノ(英語版) へ向けてブルッヘを出航した[1]。しかし、船はイギリスに寄港する前の1473年4月27日、ハンザ同盟側のダンツィヒ (グダンスクの旧ドイツ語名) から出航した私掠船の船長パウル・べネケ (Paul Beneke) により海上で襲撃される。積み荷は略奪され、本祭壇画はグダンスクの聖マリア教会に置かれた[2]。
損害を被ったメディチ家とポルティナーリはハンザ同盟に対する長い訴訟を起こす。メディチ家側はブルゴーニュ公シャルル、ローマ教皇シクストゥス4世らに支持され、作品はイタリアへの返還が要求されたが、結局グダンスクの聖マリア教会に残った。ナポレオン戦争中、作品はフランスに略奪され、ヤン・ファン・エイクの作品としてパリのルーヴル美術館に展示されたが、ナポレオンの失脚とともにグダンスクの聖マリア教会に戻った。20世紀に、作品は現在の所蔵先であるグダンスク国立美術館に移されている[2]。
作品ロヒール・ファン・デル・ウェイデン『最後の審判』 (1415-1450年ごろ、ボーヌ施療院)
主題は、イエス・キリストの再臨時における「最後の審判」である。本作は、フランスのボーヌ施療院にあるロヒール・ファン・デル・ウェイデンの『最後の審判』から多くを借用し、同時に変更を加えて再構成したものである。メムリンクはウェイデンの作品をおそらく実見したのであろう[1]。
本作ではウェイデンの非常に横長の、多層的で位階的な図像は狭められているが、中心人物であるキリストと大天使ミカエルの荘厳な姿は両作に共通している。キリストの姿はウェイデン作品の複製といってもよく、使徒たちの頭部もまたウェイデン的である。しかし、ウェイデンの作品で司祭の服装をしているミカエルは、メムリンクの作品では兵士に姿を変えている[1][3]。