最上郡(もがみぐん)は、山形県(出羽国・羽前国)の郡。8世紀の初めには裳上郡とも書き、陸奥国に属した。
人口32,991人、面積1,580.38km²、人口密度20.9人/km²。(2024年4月1日、推計人口)
以下の4町3村を含む。 古代の郡域は現在の村山地方(山形地域)と最上地方で、中世に村山郡と分割されて以降の郡域は、東村山郡・山形市・天童市および西村山郡朝日町、上山市の大部分(中山を除く)、西置賜郡白鷹町の一部(針生)にあたるが、行政区画として画定されたものではない。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在属する4町3村に新庄市を加えた区域にあたる。 はじめ陸奥国に属して裳上郡とも書き[1]、後の村山郡の区域にもわたっていた。『続日本紀』には和銅5年(712年)の10月1日に置賜郡とともに出羽国に割譲されたとあり、これが最上郡の文献初見でもある[2]。しかし霊亀2年(716年)9月23日の箇所にはふたたび陸奥国の置賜郡・最上郡として現われ、中納言の巨勢万呂(巨勢麻呂)の進言で出羽国に移管されたとある[3]。天平9年(737年)の陸奥・出羽間道路開削作戦のときには確実に出羽国になっていた[4]。 仁和2年11月11日(886年12月10日)に2郡に分割された[5]。これを記す『日本三代実録』に分割後の郡名は記されないが、北が村山郡、南が最上郡となったようである。 太閤検地のころ、南北2郡の名称入れ替えとともに再編が行われ、旧最上郡が村山郡に、旧村山郡の北部が最上郡、旧村山郡の南部が村山郡となった。 正保日本図が作成されたころ、郡境が確定されたといわれている。なお、元治元年(1864年)の『最上名所名産名物番付』に現在の最上地方・村山地方の産物が含まれることから、名称としての「最上」は江戸時代を通じて両地方を指したとみられる。
金山町(かねやままち)
最上町(もがみまち)
舟形町(ふながたまち)
真室川町(まむろがわまち)
大蔵村(おおくらむら)
鮭川村(さけがわむら)
戸沢村(とざわむら)
郡域
歴史領域の変遷(緑・橙・黄:成立当初、黄:村山郡との分割後、緑:太閤検地以後)
近代以降の沿革
幕末時点では出羽国に所属し、全域が新庄藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点に存在した村は以下の通り。●は村内に寺社領が存在。(1町86村)
新庄[6]、●新庄十日町村、●新庄金沢町村、萩野村、●升形村、飛田村、泉田村、松本村、西山村、●新庄五日町村、●鳥越村、●角沢村、宮田村、芦沢村、●仁間村、福田村、福宮村、本合海町村、合海町村、●清水町村、南山村、金山十日町村、金山七日町村、金山内町村、有屋村、田茂沢村、安沢村、下野明村、上台村、山崎村、朴山村、飛森村、漆野村、谷口銀山村、中田村、及位村、藁坊野村、高沢村、川内村、大滝村、大沢村、差首鍋村、釜淵村、平枝村、●京塚村、庭月村、石名坂村、木野下村、内町村、新町村、平岡村、川口村、向居村、松坂村、神田村、中渡村、小和田村、羽根沢村、曲川村、●佐渡村、古口村、真柄村、柏沢村、角川村、蔵岡村、岩清水村、津谷村、名高村、舟形町村、長者原村、富田村、長沢村、堀内村、赤松村、法田村、東法田村、志茂村、大堀村、月楯村、本城村、向町村、豊田村、黒沢村、若宮村、満沢村、富沢村、堺田村
明治元年12月7日(1869年1月19日) - 出羽国が分割され、本郡は羽前国の所属となる。