曾我兄弟の仇討ち
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富士野における仇討ちの場面(曽我物語図会)

曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経富士野にて討った事件。赤穂浪士の討ち入り伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの1つである。
概要曾我兄弟 歌川国芳曾我五郎時致 歌川国芳画

曽我兄弟の仇討ちは、駿河国富士野(現在の静岡県富士宮市 [1][2][3]、『吾妻鏡』は更に子細に富士野神野と記す)で発生した。兄の曽我十郎祐成(一万)が22歳、弟の曽我五郎時致(箱(筥)王)が20歳の時のことであった(数え年)[4]

真名本『曽我物語』によると、仇討ちの発端は安元2年(1176年)10月に兄弟の父である河津祐泰伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経の郎従に暗殺されたことによる[5]。祐泰が31歳、一万が5歳、箱王が3歳の時のことであった[4]。祐経は「心を懸けて一矢射てむや(真名本『巻第一』)」と伊東荘[6]を中心とする所領相論[7]の相手であり妻(万劫)を離縁させた人物でもある伊東祐親の暗殺を郎従に命じていたが[8]、実際は矢は祐親ではなく祐泰に命中し非業の死を遂げた[9][注釈 1][注釈 2]。その敵にあたる祐経を曽我兄弟が討った事件である(兄弟の母が曽我祐信と再婚したため兄弟は曽我姓を名乗る)。

同事件は様々な分野に影響を与えた。「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名を成す伊賀の仇討」といった言葉にあるように[11]、現在日本三大仇討ちに数えられ、武士社会においては仇討ちの模範とされた[12]。また『曽我物語』や江戸時代の教科書『富士野往来』といった史料、芸能では「曽我物」を成立させた。

近代には教科書にも採用され、尋常小学校の教科書に曽我物語の要約、高等小学校の教科書や高等女学校の国語読本に能「小袖曽我」(後述)が掲載されるなどしている[13]。一方GHQによる検閲で仇討ち物は忌避されたため[14]、一般への認知に影響を与えたと指摘される[15][16]
吾妻鏡の記述

曾我兄弟の仇討ちは、富士の巻狩の際に富士野神野にて発生した。『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催している。

事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた[17]

傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大混乱となり、宿侍が走り出す。曾我兄弟と頼朝の御家人の間で戦闘が始まり、平子有長・愛甲季隆吉川友兼加藤光員海野幸氏・岡辺弥三郎・岡部清益・堀藤太・臼杵八郎といった武将らは傷を負った。また宇田五郎も兄弟に討たれ、十郎(兄、祐成)は仁田四郎忠常と対峙した際に討たれた[18]

五郎(弟、時致)は将軍頼朝を目掛けて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが、大友能直がこれを押し留めた。この間に時致は御所五郎丸に取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなった。その後、和田義盛梶原景時が検死を行った[18]

仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された[19]

30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた[20]。6月1日には祐成の妾のを始めとする多くの人物に対して聴取が行われ、虎は放免されている[注釈 3][注釈 4]


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