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『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう/旧字曾根崎心中、そねざきしんぢゅう)は、世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語である。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。 『曽根崎心中』は、元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した事件を題材にしている。この事件以降、露天神社はお初天神とも呼ばれる事が多くなった。 人形浄瑠璃『曽根崎心中』の初演は同年5月7日(6月20日)の道頓堀にある竹本座での公演であったが、そのときの口上によるとそれより早く歌舞伎の演目として公演されており、人々の話題に上った事件であったことがうかがわれる。宝永元年(1704年)に刊行された『心中大鑑』巻三「大坂の部」にも「曾根崎の曙」として同じ事件のことが小説の形で記されている。この演目を皮切りとして、「心中もの」ブームが起こった。門左衛門の代表作の1つである『心中天網島』も享保5年(1720年)に発表されている。 またこうした心中ものの流行の結果、来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したため、江戸幕府は享保8年(1723年)より上演や脚本の執筆や発行を禁止すると共に、心中者の一方が生存した場合は極刑を申し渡し、双方生存の場合は晒し者にしたのち市民権を奪い、心中死した遺体は親族に下げ渡さず一切の葬儀を禁ずるなど心中事件に対して苛烈な処置を行ったが、曽根崎心中後も「心中天網島」(享保5年-1720年)、旗本藤枝教行(藤枝外記)と遊女綾絹の「藤枝心中」(天明5年-1785年)などと流行した。 当時大坂で大変人気のあった「大坂三十三所観音廻り」を終えたお初は(この観音めぐりのシーンは現在は割愛される場合が多い)、醤油屋の手代・徳兵衛と生玉で再会をする。二人は以前から恋し合う仲であった。このところ音沙汰無かったことを責めるお初に、会えない間に自分は大変な目にあったのだと徳兵衛は語る。 徳兵衛は、実の叔父の家で丁稚奉公をしてきたが、誠実に働くことから信頼を得て娘(徳兵衛には従妹)と結婚させて店を持たせようとの話が出てきた。徳兵衛はお初がいるからと断ったが、徳兵衛が知らないうちに叔父が勝手に話を進め、徳兵衛の継母相手に結納金を入れるところまで済ませてしまう。なおも結婚を固辞する徳兵衛にとうとう叔父は怒りだし、勘当を言い渡した。その中身は商売などさせない、大阪から出て行け、付け払いで買った服の代金を7日以内に返せというものであった。徳兵衛はやっとのことで継母から結納金を取り返すが、それを叔父に返済する段になって、どうしても金が要るという友人・九平次から3日限りの約束でその金を貸してしまった。 と、徳兵衛が語り終えたところに九平次が登場する。同時に、お初は喧嘩に巻き込まれるのを恐れた客によって表に連れ出される。 徳兵衛は、九平次に返済を迫る。が、九平次は証文まであるものを「借金などは知らぬ」と逆に徳兵衛を公衆の面前で詐欺師呼ばわりしたうえ散々に殴りつけ、面目を失わせる。
初版完全版『竹本筑後掾正本、山本九兵衛・山本九右衛門板「曽根崎心中」』が黒部市美術館に、奥書欠本のものが大阪府立中之島図書館に存在する。
物語背景
あらすじ