曽我量深
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曽我 量深(そが りょうじん、1875年明治8年)9月5日 - 1971年昭和46年)6月20日)は、日本明治?昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授。旧姓、富岡。法名、「無極院釋量深」。

伝統的な解釈のもとに継承されてきた仏教・真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史の展開上、大きな足跡を残した。

出身地である旧味方村から名誉村民の称号が贈られている[1]新潟市南区味方には、同じく名誉村民の脳神経解剖学者の平澤興と、量深の2人を顕彰する「曽我・平澤記念館」が建てられている。目次

1 経歴

2 法語集

3 著書

3.1 論集

3.2 論文


4 参考文献

5 脚注

6 外部リンク

経歴

1875年9月5日、
新潟県西蒲原郡味方村(現、新潟市南区味方)円徳寺に、富岡量導の三男として生まれる。

1897年、新潟県南蒲原郡新潟村大字指出(現、見附市)の浄恩寺に入寺、曽我恵南の養子となり曽我姓となる。

1899年、真宗大学(現、大谷大学)本科を卒業。

1901年、真宗大学が東京府北豊島郡巣鴨村宮仲(現、東京都豊島区上池袋一丁目・宮仲公園付近)へ移転・開校するにともない、東京に移住する。

初代学監(学長)には、清沢満之が就任する(?1902年)。


1903年3月、清沢満之が近角常観の留守宅にて主宰した私塾浩々洞に加入する。

1903年6月6日、清沢満之示寂。


1904年7月、真宗大学研究院を卒業する。

同年9月、同大学の教授に就任する。

1911年、真宗大学を京都に戻し、高倉大学寮と合併し、真宗大谷大学と改称することが決定する。(1913年、移転。)


同年9月、同大学の京都移転に反対して辞任する。

同年10月、郷里新潟に帰り研鑽を続けつつ、同郷の金子大栄と親交を深める。

1916年、金子大栄のあとを受けて、清沢満之が創刊した雑誌『精神界』の編集責任者として再び東京へ移住する。

同年9月、東洋大学教授に就任する。

1924年3月、東洋大学教授を辞任する。

同年10月、再び郷里新潟に帰る。

1925年4月、大谷大学教授に再任、京都に移住する。

1926年、「如来表現の範疇としての三心観」を講義する。

無量寿経』に説かれる法蔵菩薩と、唯識思想阿頼耶識(第8識)とは本質的に同じであり、「本願の三心(至心・信楽・欲生)」と、「阿頼耶識の三相(自相・因相・果相)」とは同じものであると主張する。


1927年、講義録『如来表現の範疇としての三心観』を著す。

1930年3月、『如来表現の範疇としての三心観』における主張が、異安心とされ問題となり、事実上追放の形で、同大学教授を辞任する。(しかし、その後も自説を堅持する。)

同年9月、金子大栄らと共に左京区鹿ケ谷に興法学園を開設する。同学園にて、研鑽と講義を継続し、多くの論文を発表する。

1941年8月、真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられる。

同年11月、大谷大学教授に復職する。

1942年7月11日?8月10日東本願寺安居本講講者に任命され、『歎異抄』を講ずる。

この講義録は、北原繁麿・松原祐善・安田理深・日野賢憬が筆録し、1947年に『歎異抄聴記』として出版される。


1949年GHQ公職追放の指令により同大学教授を辞任する。

1951年、同大学名誉教授となる。

1955年11月?1956年1月、渡米する。

1959年、東本願寺侍薫寮々頭に就任する。

1960年、東本願寺安居本講にて、『顕浄土真実信文類』を講ずる。

この講義録は、1963年に『教行信証「信の巻」聴記』として出版される。


1961年8月、大谷大学学長に就任する。

1965年8月、同大学学長に再任される。

同年、勲三等瑞宝章を受章

1967年8月、同大学学長を退任する。

1968年、東本願寺安居本講にて、『正信念仏偈』を講ずる。

この講義録は、1969年に『正信念仏偈聴記』として出版される。


1970年10月、雑誌『中道』における差別表現の問題で、侍薫寮々頭を引責辞任する。

1971年6月20日、示寂。


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