曽我佑邦
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曽我祐邦

曽我 祐邦(そが すけくに、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:曾我 祐󠄀邦󠄂、1870年8月12日(明治3年7月16日[1])- 1952年昭和27年)8月15日[1][2][2])は、明治から昭和期の陸軍軍人政治家華族。最終階級は陸軍砲兵大尉貴族院子爵議員

皇族憲仁親王妃久子曽孫にあたる。玄孫に、承子女王千家典子守谷絢子がいる。
経歴

兵部少丞・曾我祐準の四男として生まれる[1][3][4][5]。父の隠居に伴い、1924年(大正13年)2月15日、子爵を襲爵した[1][4][6]

1894年(明治27年)陸軍砲兵少尉に任官[2]フランスに留学し、1894年、エコール・ポリテクニーク校を卒業し[7]、さらに1896年(明治29年)フォンテンブロー砲工実施学校を卒業した[2][4][5]。帰国後、皇族付武官(伏見宮貞愛親王付)、北京公使館付武官補佐官陸軍兵器本廠検査官などを歴任し、砲兵大尉に進級して病のため退役した[2][3][4]。顧問団の1人として再度フランスに渡り、パリ講和会議に参加した[7]。その後、日本電報通信社重役、日仏協会副理事長、同理事長、日仏会館副理事長、日仏同志会長、台湾銀行監査役、神戸製鋼所監査役、日章火災取締役などを務めた[2][4]

1925年(大正14年)1月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[8][9]研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月15日に貴族院議員の公職を辞職するまで通算四期在任した[2][10]。この間、社会政策審議会委員、議会制度審議会委員、国家総動員審議会委員などを務めた[2]

1928年(昭和3年)には、フランス共和国レジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを受章した[7]
親族

母 晟子(あきこ、
華園摂信七女)[1][3]

先妻 晃子(てるこ、松園尚嘉二女、鷹司煕通養女)[1]

後妻 たみ(多屋寿平次四女)[1]

二男 凖和[1][3]

二女 盛子(もりこ、友田二郎夫人)[1][3]

脚注^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成 上巻』798-799頁。


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