曽我ひとみ
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そが ひとみ
曽我 ひとみ
2023年撮影
生誕 (1959-05-17) 1959年5月17日(65歳)
新潟県佐渡郡真野町(現、佐渡市
国籍 日本
別名ミン・ヘギョン(北朝鮮での名[1]
親茂(父)
ミヨシ(母)
家族富美子(妹)
チャールズ・ジェンキンス(夫)
美花・ソガ・ジェンキンス(長女)
ブリンダ・ソガ・ジェンキンス(次女)
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曽我 ひとみ(そが ひとみ、1959年昭和34年)5月17日 - )は、1978年(昭和53年)8月に新潟県佐渡郡真野町(現、佐渡市)から母親の曽我ミヨシとともに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致された日本人女性[2][3][4][5]北朝鮮工作員による拉致被害者[2][3][5]1980年(昭和55年)8月にアメリカ人脱走兵のチャールズ・ジェンキンスと結婚し、2人の子をもうけた[4][6]2002年(平成14年)10月、24年ぶりに日本への帰国が叶い、2004年(平成16年)7月には夫と娘の日本行きが実現した[4]。現在も佐渡島在住。
人物・略歴母の曽我ミヨシとひとみ(1960年代)

曽我ひとみは、1959年(昭和34年)5月17日、曽我茂・ミヨシの長女として新潟県佐渡郡真野町に生まれた[1][2]。真野中学校ではバドミントン部に所属した[2]1975年(昭和50年)3月に中学を卒業し、4月には佐渡総合病院付属准看護学院(旧金井町)および新潟県立佐渡高等学校定時制課程沢根分校(旧佐和田町)に入学した[3][7]。准看護学院の教員は、ひとみはひたむきに頑張っていたと語っている[3][7]。病院勤務は1977年4月から始まり、夜間高校に通いながら准看護師として働いた[3][7][注釈 1]。子ども相手の仕事は特に好きで、上手にあやしながら手当てを施していたという[3]1978年4月から、ひとみは外科外来に配属となった[3]。親しい友人だけには外科は苦手だと語ったが、遅刻や無断欠勤は一度もなかったという[3]。高校へは、仕事を終えると午後6時からの授業に間に合うように夕食もとらず、病院から約10キロメートルの距離をバスで通学した[9]。授業の後はバスケットボール部の練習があり、病院の寄宿舎に戻ると、だいたい午後11時を過ぎていた[9]。彼女はふだんは病院の寮で暮らし、週に一度、土曜日に真野町の実家に戻り、日曜日に寮に戻るという生活をしていた[2]。定時制高校の卒業証書を授与される前に彼女は拉致されてしまった[9]
拉致

拉致事件が起こったのは、1978年(昭和53年)8月12日土曜日のことであった[2][3][10]。その日、ひとみは午前の診察を終え、夕方に帰宅した[3]。そして、仕事を終えて帰宅した母と少し話した後の午後7時頃、2人は400メートルくらい離れた雑貨屋まで買い物に出た[2][3][7][11]。母のミヨシは前掛け姿のままで、台所には水に浸したままの赤飯用のもち米が置いてあった[3][7]。中学1年生だった妹は、2人はすぐに戻ると思っていたという[3][7]。ひとみはその時、母と2人きりで話したいという気持ちがあったので、自分も買い物に行くと言った妹と少し言い争いになった[12][注釈 2]

2人がに仏前の供えるものやアイスクリームなどの買い物をすませて店を出、家の方に戻ろうと歩いていると、後方で何人かの足音が聞こえた[2][3]。振り向くと男が横に3人並んで後をついて来るのがわかった[2][3]。2, 3分してもまだついてくるので、気味が悪くなって「急ごう」と2人で話して少し足早に歩くようにした[3][12]。道路沿いの大きな木のある家のところまで来たとき、突然、後ろから男たちが襲いかかってきて母と娘を木の下に引きずり込んだ[2][3][12]。家まで数十メートルないし100メートルというところだった[5][11]。彼女は声を出せないよう口をふさがれ、袋に詰められ、1人の男に担ぎ上げられた[2][3][12][注釈 3]。母がどうなったかはわからない[2][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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