曹鼎
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曹 鼎[1](そう てい、生没年不詳)は、中国後漢末の人物。曹操らの曹氏の一族で、曹萌の子。宦官曹騰の弟(『後漢書』党錮列伝)[2]

河間国の時、冀州刺史の蔡衍が、曹鼎が汚職をしていると弾劾した。

その時に曹鼎の兄である中常侍の曹騰は、当時の大将軍梁冀に曹鼎を助けるよう蔡衍へ手紙を書かせたが、蔡衍はそれに答えず、曹鼎を逮捕し投獄した(『後漢書』党錮列伝)。
墓所

水経注』の巻23「陰溝水」に曹操の一族にまつわる墓所についての記載があり[3]、1970年代に入り中国安徽省で水経注の記載に基づく考古学調査が行われた際に曹鼎はじめ多くの曹一族の墓所が発見され、曹操の宗族である曹鼎の兄・曹褒と曹騰や曹嵩、曹鼎の甥・曹熾らの墓碑の破片なども出土した[4]

墓所一帯は曹操宗族墓群(中国語: 曹操宗族墓群)として2001年中華人民共和国国務院によって中華人民共和国全国重点文物保護単位の指定を受けた[5][6]
脚注^ 曹洪の伯父である曹鼎との関係は未詳である。石井仁『曹操―魏の武帝』(新人物往来社、2000年)は、出土資料に基づき、曹洪の伯父たる曹鼎・曹騰の弟たる曹鼎・さらに曹休の祖父たる呉郡太守を同一人物とする。そのうえで曹鼎は曹騰の弟ではなく兄の子とする)。
^ 盧弼『三国志集解』は、『三国志』武帝紀裴注では曹騰が末弟とされていることから、或いは曹鼎は曹騰の兄かとする趙一清の説を引く。
^  水經注卷二十三 陰溝水 汳水 獲水 (中国語), 水經注/23#陰溝水, ウィキソースより閲覧。  - 沙水自南枝分,北逕?城西,而北注?。?水四周城側,城南有曹嵩冢,冢北有碑,碑北有廟堂,餘基尚存,柱礎仍在。廟北有二石闕雙峙,高一丈六尺,榱櫨及柱皆雕鏤雲矩,上??已碎,闕北有圭碑,題云:《漢故中常侍長樂太僕特進費亭侯曹君之碑》,延熹三年立。碑陰又刊詔策二,碑文同。夾碑東西,列對兩石馬,高八尺五寸,石作?拙,不匹光武隧道所表象馬也。有騰兄冢,冢東有碑,題云:漢故潁川太守曹君墓,延熹九年卒。而不刊樹碑?月。墳北有其元子熾冢,冢東有碑,題云:《漢故長水校尉曹君之碑》。?大中大夫、司馬長史、待中,遷長水,年三十九卒,熹平六年造。
^ “亳州?字?:???代的社会??”. ⇒オリジナルの2022年1月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220114152637/http://ah.ifeng.com/human/huidu/detail_2016_01/08/4728941_0.shtml 2023年8月15日閲覧。 
^ ?角度看?史:2000年前工匠?上刻字嫌“?少活重”
^曹操宗族墓群


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