曲水の宴(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。略して曲水、曲宴ともいう(『広辞苑』第2版)。
なお、「水上から流れてきた盃が自身の前を流れるまでに歌を詠む」とする解説が広く流布されているが、これは曲水の宴が行われなくなった室町時代の『公事根源』などの記述が発祥となったとみられており、平安時代の曲水の宴の様子を描いた記録[1]を見てもこうした事実を裏付けるものはなく、事実ではなかったと考えられている[2]。
起源・沿革
中国蘭亭曲水図
中国においては、古い時代から上巳に水辺で禊を行う風習があり[3]、それが3月3日に禊とともに盃を水に流して宴を行う(流觴曲水=盃を曲水に流す)ようになったとされる。古代、周公の時代に始まったとも秦の昭襄王の時代に始まったとも伝えられている。東晋の永和9年(353年)3月3日、書聖と称された王羲之が蘭亭で「曲水の宴」を催したが、その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書『蘭亭序』である[4]。
その後、一時的に行われなくなったものの、唐の時代になって朝儀ではなく、私宴の形式で再興されるようになった[5]。 日本では顕宗天皇元年(485年)3月に宮廷の儀式として行われたのが初見(『日本書紀』[6])。ただしこの記事から曲水の宴に関する記録は文武天皇5年(701年)まで途絶え[7]、その間も行われていたかは不明。顕宗天皇の時代ならば曲水は中国では盛んに行われていて、日本にその風習が伝わっていても不自然ではない。しかし、中国では魏(220年-265年)以降「3日を用いて上巳を用いず」としており、顕宗天皇紀が依然として上巳を用いており[8]、公式の記録も奈良時代まで飛んでいるため、或いは顕宗天皇紀の記事は編者による挿入かとも疑われる[9]。 文武天皇以降史上に散見するようになり、奈良時代にはこれらの行事は3月3日が常例となり、奈良時代後半には盛んになった。主に宮廷の催しごと(主催者は天皇)として行われたが、『万葉集』には中納言大伴家持が自第で催した曲水宴を詠んだ「漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶてふ今日そ我が背子(せこ)花縵(はなかづら)せな」の歌が載せられ[10]、詞書
日本
『天満宮安楽寺草創日記』によると、大宰府でも天徳2年(958年)3月3日に大宰大弐、小野好古が始めたとされるが、中世以降は断絶した。権勢を誇った藤原氏などは中国に倣って船を浮かべたりしたともいう。
朝鮮慶州の鮑石亭