暦法
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暦法(れきほう)とは、毎年のを作成するための方法を指す。暦は、天体の運行に基づいて確立される。主として太陽が用いられ、月の運行に基づいた暦を太陰暦、月と太陽の運行に基づいた暦を太陰太陽暦、太陽の運行に基づいた暦を太陽暦という。
概要

以下に暦法の概要として表を示す。

暦法の概要暦法の種類正式名称太陰暦
: lunar
calendar太陰太陽暦
: luni-solar
calendar太陽暦
: solar
calendar
別名

陰暦[1]

純太陰暦[1]

純粋太陰暦[2]


太陰暦[1]

陰陽暦[3]

陰暦[3]


陽暦[4]

具体例
(現行の暦法の名称)ヒジュラ暦
(イスラム暦)
のみ[1][2]Category:
太陰太陽暦

を参照)(Category:
太陽暦

を参照)
月の運行周期に基づくか
1朔望月:約29.530589日[5])はい
[注釈 1]はい[3]いいえ
太陽の運行周期を
考慮するか/基準とするか
1太陽年:約365.242189日[7])いいえはい[3]はい[8]
1年の長さ平年354日[9]354日/355日[10]

364日[注釈 2]

365日[注釈 3]

など
閏年355日[9]383日/384日[10]

366日[注釈 4]

371日[注釈 5]

など
1年当たりの月数平年12暦月
(固定)
[9][注釈 6]12暦月[10](多種多様)
[注釈 7]
閏年13暦月[10]
閏月込み)

太陰暦の暦法
古代オリエントの暦法

古代オリエント(古代エジプトは除く)では、太陰暦を採用しており、シュメール人のウルク王朝の都市国家(前3500?前3100年頃)もアッカド王国のウル王朝(前2500?前2100年頃)も古代バビロニア王国のバビロン第1王朝(前2000?前1500年頃)の時代も、目測で観測できる月の満ち欠けに基づいて暦を決めていた。通常は、新月(三日月)から始めて次の新月までを1ヶ月としていた。その以前からも太陰歴は使用されたという説もある。

また、暦に関連して、シュメールのウルク王朝時代から、既に60進法が用いられており、これが12時間、60分、60秒の単位として、現在に至るまで受け継がれている。

また、「19太陽年≒235朔望月」とする法則は、西欧では「前432年にギリシアの天文学者メトンによって発見された」と信じられていたので、「メトン周期」と呼ばれるが、実際の発見は、おそらく前8世紀半ばのバビロニアで、メトンはこれを西方に導入したものと考えられる。
ヒジュラ暦の暦法

ヒジュラ暦採用前のアラビア半島では、ユダヤ暦に学んだ太陰太陽暦を用いており、メトン周期として知られる19年7閏法(19太陽年(228ヶ月)の間に、7回、閏月を置閏し、19太陽年とほぼ等しい長さの235朔望月にする方法)に基づき、第13番目の閏月が3年に一度ほど挿入されていた。その太陽暦の部分を切り落としたものがヒジュラ暦である。

太陰暦(純太陰暦)を用いているヒジュラ暦(イスラム暦)においては、1年を平年354日、閏年はこれに1日足した355日の暦法を用いている。平年は30暦日の月と29暦日の月を交互に12か月設置することになっている。太陰年は正確には1年=354.36705日であり、端数に30を掛けるとほぼ11日(11.011日)となるため、30年に11回の割合で閏日を置く。イスラムの暦法では30年周期のどの年に閏日を割り振るかが重要な課題となる。閏日が置かれる場合は、平年では29日であるズー・アル=ヒッジャ月(第12月)が30日となる。

なお、ヒジュラ暦の1年は太陽暦の1年よりも11日程短いために、ヒジュラ暦以外の世界から見ると毎年年始の暦日が早まっているように見える。特にラマダーン月(第9月)は日中の断食を伴うために、その日付を知らずに非イスラム教徒イスラム世界を訪問したときに食事をめぐってトラブルとなる場合がある。

純太陰暦(1年=約354日)では、端数部分を除いて、閏による補正を行わないために、毎年11日早まるので、33年で季節が一巡する。このことから、「33」は陰秘学(オカルト)において非常に重視される数字となっている。
太陰太陽暦の暦法
東洋の暦法「中国暦」も参照

原則的には太陰暦と同じ朔望月29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年かに1回閏月を加えることで調整を行った。

中国において行われたのは、季節を知らせる二十四節気を挿入する方法であった。これは冬至から次の冬至までの太陽年を24等分して1か月に2つの節気が含まれることとした。そのうちその月の節気の前者を「」、後者を「中」あるいは「中気」と呼び、「中気」は暦月に必ず一つ入ることが原則とされていた。「中気」には冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪があり、その間隔は30.346日である。ところが、実際の暦月は太陰暦と同様に30日と29日の交互であったために、時々「中気」が暦月に入らない月が出現する。その月を前の月の閏月と規定して正規の月から外して、その次の「中気」を含む月を翌月としたのである。その調整のために高度な計算が必要となり、しばしば改暦が行われることとなった。一方、「節」は暦注を定める際の参考とされ、節から節までの間を「節月」として区切った(「節切り」)。なお、24節気の名称は中国文明の中心とされた華北の季節状況に合わせて設定されており、日本や朝鮮半島、それに中国でも華南の季節状況は何ら勘案されていないことに注意を必要とする。さらに、二十四節気の下には七十二候というものもあった。

また、中国においては「三正」という考え方があり、雨水を、大寒を、冬至を含む月を年始として採用した。これは、他者の暦を用いることは従属の証と考えられたために、前王朝を倒すとその否定のために前王朝と違う「中気」をもつ月を年始と定めたことによる。このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった。

なお、黄道上における太陽のみかけの動きは冬には早く夏には遅く見える。そのため、太陽が黄道上を15度進んだ期間に応じて節気を進める「定気」という手法も中国の時憲暦から採用された。日本では最後の太陰太陽暦となる天保暦でのみ採用された。
西洋の暦法

新バビロニア(バビロニア歴)・ユダヤ(ユダヤ歴)・古代ギリシアなどの太陰太陽暦は、基本的には東洋のそれと同じであるが、長期的にずれが少なければ良しとして、細かい天象との差異は気にされなかったとされている。これらの国々では黄道十二宮を利用して調整を行った。
太陽暦の暦法
古代太陽暦の暦法

古代エジプトの暦では、古くは、1か月を30日(1週間は10日。1か月は3週間)、1年を12か月(1年を12か月に分ける方法は、月の満ち欠けの周期(1か月)を12.37回繰り返すと1年経つことに由来する)、1年を360日、とする変則的な太陰暦であることから、古代エジプトでも記録に残る以前の時代には、他の地域(文明)と同じく、太陰暦を使っていたと考えられている。


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