暦書_(ノストラダムス)
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1555年向けの新たなる占筮と驚異の予言

ノストラダムスの暦書(れきしょ)もしくはアルマナ、アルマナック (Almanach) は、1549年頃から1566年ごろまで毎年出されていた、翌年一年を予言した刊行物の暫定的な総称。「[1]、「占星暦」[2]などとも訳される。
概要

ノストラダムスの年季刊行物は「暦書」と総称されることが多いが、実際には、初期に出されていたのは主に「占筮(せんぜい; Pronostication)」(プロノスティカシオン。「予測」、「占い」などとも訳される)と呼ばれる散文体の予測で、1557年向けのものあたりからカレンダー形式の予測「暦書」が並行的に刊行され、1563年向けのものから両者を合本した「暦書」が出されるようになった[3]

「暦書」類は1550年向けから1567年向けまで出されていたが、1551年向けは内容が残っていないだけでなく、出されていたかどうかも分かっていない[4]

カレンダー形式の「暦書」には各月ごとに四行詩が添えられており、これがのちに『予兆詩集』の素材となった[5]。予兆詩は1555年向けのものが最初であり、以降1567年向けまで存在するが、1556年向けは現存しない(1556年向けの素材が流用された疑いのある海賊版なら現存する[6])。
構成
暦書

暦書はカレンダー形式になっている。月の冒頭には、その月に関する四行詩が添えられている(後出の#予兆詩参照)。各日には守護聖人や祝日が記載され[7]、数語程度の簡潔な予測が添えられている。例えば、「8日、この日は、霧が出ます」「10日、誰かが死にかけます」などである[8](予測は数日分にまたがって記載される場合もある[9])。

ノルマンディー地方のコタンタン半島の地方領主グーベルヴィルなどのように、ノストラダムスの暦書を一種の農事暦として使っていた者がいたことも指摘されている[10]
占筮

占筮は散文体で、月ごとに星位などについて述べた上で予測を記している[11]。また、季節ごとに分けた予測が併録される場合もあった[11]
献辞

ほとんどの「暦書」類に、ノストラダムスは有力者や著名人への献辞を収録した。この点は、弟ジャンへの献辞を添えた『化粧品とジャム論』、生まれたばかりの息子セザールに宛てた序文を添えた『予言集』初版などとは異なっている。

献辞を捧げた相手には、フランス王アンリ2世、同シャルル9世カトリーヌ・ド・メディシスナヴァル国王アントワーヌローマ教皇ピウス4世、文人ジャン・ド・ヴォゼルサヴォワ公妃マルグリットなどがいた[12]
編集

ノストラダムスは、毎年夏ごろまでには、翌年分の暦書の原稿を仕上げていたようである[13]。ノストラダムスは、自身の原稿が適切に出版されるかにも注意を払っており、1553年11月には、いい加減な形で編集したベルトー師(Maitre Bertot)という業者を訴え、原稿を取り上げている[14]。この原稿は、アントワーヌ・デュ・ロワイエという印刷業者に渡され、彼の下で印刷されたという[注釈 1]

また、ノストラダムスは同じ年向けの原稿を複数執筆していたらしいことが、いくつかの記録から指摘されている[16]。例えば、『1562年向けの暦』の序文に採用された「ピウス4世への献辞」は、実際に出版されたものとは若干異なる手稿の存在が知られている[17]。しかし、そうした複数の版は全てが出版されたわけでなく、業者の意図で取捨選択されることがあった。1557年11月20日付の印刷業者ブロトーからの書簡では、2つの原稿のうちひとつしか出版しない旨が通告されている[18]
反響

当時、ノストラダムスの「暦書」類は、予言に関する著作としてはかなり評価が高かったようで、早くも1552年向けの「暦書」(正式名は伝わっていない)について、内容を剽窃した偽版が出されている(『医師にして占星術師クロード・ファブリ師による1552年向けの真の新占筮』アジャン、1552年)[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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