暉子内親王
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暉子内親王
続柄
後堀河天皇第一皇女

全名暉子(きし)
称号室町院
身位内親王准三宮
出生安貞2年(1228年

死去正安2年5月3日1300年5月22日)(享年73)

父親後堀河天皇
母親持明院家行
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暉子内親王(きしないしんのう、安貞2年(1228年) - 正安2年5月3日1300年5月22日))は、鎌倉時代前期から後期にかけての皇族後堀河天皇の第一皇女で、母は持明院家行の娘(『女院小伝』)、異説に九条?子(『本朝皇胤紹運録』)。幼名は持明院宮。女院号は室町院。

歴代の女院中、不婚で后妃[注釈 1]にも准母にもならなかった内親王が女院とされた唯一の例である[1]
経歴

祖母の北白河院によって寵愛され、彼女が住んでいた持明院殿で育てられ、後にこれを継承した。仁治元年(1240年)4月21日、内親王宣下寛元元年(1243年)7月14日に准后となり、12月24日には女院となり、室町院と号した。

だが、父は天福2年(1234年)に、弟の四条天皇も仁治3年(1242年)には没し、祖父後高倉院の皇統の断絶は確定しており、更に寛元4年(1246年)8月3日に異母妹のc子内親王が重篤となって出家すると、彼女も同月6日に19歳で出家して妙法覚と号した。以降、正安2年(1300年)に73歳で薨去するまで家族の菩提を弔う日々を送ったが、伯母である式乾門院安嘉門院から膨大な荘園を継承したために彼女の遺産相続は政治問題化し、大覚寺統持明院統による両統迭立の対立を一層深刻化させる結果となった。
室町院領の継承問題

鎌倉時代後期の朝廷は亀山天皇(法皇)を祖とする大覚寺統と後深草天皇(法皇)を祖とする持明院統が皇位継承を巡って争ったが、両系統の間で深刻な対立をもたらしたのが、室町院こと暉子内親王が持っていた所領の相続問題であった[2]

鎌倉時代初期、多くの皇室領治天の君である後鳥羽上皇の所有であったが、承久の乱で敗れて隠岐に流されて所領は鎌倉幕府に没収された。その後、後堀河天皇が即位して実父である守貞親王(後高倉院)が治天の君になると、幕府は没収した所領を後高倉院に献上した。ところが、後高倉院・後堀河天皇・四条天皇が相次いで亡くなって後高倉院の皇統は断絶し、その100か所以上の所領は後高倉院の娘である式乾門院に継承された[3]。式乾門院は寛元5年(1247年後嵯峨天皇の第一皇子でありながら母親の身分の低さから皇位継承の希望が薄かった宗尊親王猶子に迎えた。その2年後の建長元年(1249年)に式乾門院は所領を姪である室町院(暉子内親王)に一期分として譲り、彼女が亡くなった後には宗尊親王がその所領を相続する未来領主に指名した。ところが、鎌倉幕府の第6代将軍になった宗尊親王は文永11年(1274年)に室町院よりも先に没したことから室町院の相続者はいない状態となった。そのため、正安2年(1300年)に室町院が亡くなると、彼女の遺領を巡る争いが発生した(なお、これとは別に室町院はもう一人の伯母である安嘉門院の遺領も一期分として相続しているが、こちらは未来領主に亀山法皇が指名されていたために、争いの対象にはならなかった)。

後嵯峨天皇の子であった亀山法皇は弘安年間に彼女から財産を譲る約束を記した譲状を得ていた事を理由に相続権を主張した。一方、亀山法皇と不仲であった兄の後深草法皇の子にあたる伏見上皇も弘安年間よりも後の正応年間に彼女から譲状を得ていると主張した。更に宗尊親王の遺児であった瑞子女王も宗尊の死後も相続権はその遺族に継承されると主張した。亀山法皇は瑞子女王を猶子に迎えて保護し、更に息子の後宇多上皇の后に迎えて永嘉門院の女院号を与える(正安4年(1302年))など厚遇して自派に取り込んだ[注釈 2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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