智達(ちたつ、生没年不詳)は、飛鳥時代の法相宗の僧。 『日本書紀』巻第二十六によると、657年(斉明天皇3年)に、使(つかひ)を新羅に使(つかは)して曰(のたまは)く、「沙門(ほふし)智達(ちだち)・間人連御厩(はしひとのむらじみうまや)・依網連稚子(よさみのむらじわくご)等(ら)を将(ひきゐ)て、汝(いまし)が国の使に付けて、大唐(もろこし)に送り致(いた)さしめむと欲(ほ)りす」とのたまふ。新羅、聴送(うけたまは)り肯(か)へず。是(これ)に由(よ)りて、沙門(ほふし)智達(ちだち)等(ら)、還(かへ)り帰(まう)けり とあるのが、智達の名前の初出である[1]。続けて、658年(斉明天皇4年)に智通とともに新羅の船で唐に渡り、玄奘からインドの学僧である無性の衆生の義(ことわり)を受けた、とある[2]。同じ事項が『三国仏法伝通縁起』には、智通・智達両般法師乗二新羅船一往二大唐国、二遇二玄奘三蔵一学二法相宗一 と記されており、同様の記述が『仏祖統記』・『宋史』日本伝(巻第四百九十一・外国伝七・日本条)にも見える。法相宗は4回にわたり日本に伝来したと言われているが、智達・智通たちは、その第2伝とされている。 智通と共に、智周から法相宗を学んだ。帰国後は大和国飛鳥寺で法相宗をひろめた。
経歴
(使いを新羅に遣わして、「沙門智達・間人連御厩・依網連稚子らを新羅の国の使いにつけて、大唐(もろこし)に送りたいと思う」といわれた。新羅はそれに従わなかった。それで沙門智達らは帰国した)訳:宇治谷孟
脚注[脚注の使い方]^ 『日本書紀』斉明天皇3年是歳条
^ 『日本書紀』斉明天皇4年7月是月条
参考文献
『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p804、三省堂、1993年
『日本書紀』(四)岩波文庫、1995年
『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝 ?中国正史日本伝(2)』石原道博:編訳、岩波文庫、1956年
『倭国伝 中国正史に描かれた日本』全訳注、藤堂明保、竹田晃、影山輝國、講談社学術文庫、2010年
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