智積院
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この項目では、智積院について説明しています。その他の用法については「智積院 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

智積院
金堂
所在地京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964
位置

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山号五百佛山(いおぶさん)
院号智積院
宗派真言宗智山派
寺格総本山
本尊金剛界大日如来
創建年慶長6年(1601年
開山玄宥
正式名五百佛山 根来寺 智積院
別称総本山智積院
札所等真言宗十八本山第7番
近畿三十六不動尊霊場第20番
京都十三仏霊場第1番
神仏霊場巡拝の道第120番(京都第40番)
文化財大書院障壁画25面、松に草花図屏風、金剛経(国宝
絹本著色童子経曼荼羅図、絹本著色孔雀明王像、絹本著色阿弥陀浄土図ほか(重要文化財
庭園(国の名勝
公式サイト真言宗智山派 総本山智積院
法人番号5130005002189

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名勝庭園

智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山寺院山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号根来寺(ねごろじ)。本尊金剛界大日如来。開山は玄宥。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺および東京都八王子市高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。
歴史

智積院は、もともと紀伊国根来(現・和歌山県岩出市根来)にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大伝法院を根来に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので根来山内の学問所であった。

近世に入ると根来寺は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで全山炎上した。当時の根来寺には2,700もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は根来攻めが行われる前に弟子たちを引き連れて寺を脱出し、高野山に逃れた。その後、玄宥は新義真言宗の法灯を守るために智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。

関ヶ原の戦い徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山豊国社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた。これにより、智積院はようやく復興を遂げた。

3代目住職日誉の代、慶長20年(1615年)に豊臣氏が滅ぼされると、江戸幕府から隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺を与えられて吸収合併し、さらに規模を拡大させ、山号を現在も根来に名を残す山の五百佛山、復興後の智積院の寺号を根来寺とした。祥雲寺は、豊臣秀吉が3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提を弔う為、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたものである。この客殿は天和2年(1682年)7月の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせた為と推定されている。

金堂は元禄14年(1701年)3月、第10世専戒僧正が発願し、桂昌院徳川綱吉母)より与えられた金千両を基にし、学侶からの寄付金を資金として宝永2年(1705年)春に建立された。


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