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町丁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分34.83秒 東経139度47分5.64秒 / 北緯35.6596750度 東経139.7849000度 / 35.6596750; 139.7849000座標: 北緯35度39分34.83秒 東経139度47分5.64秒 / 北緯35.6596750度 東経139.7849000度 / 35.6596750; 139.7849000
都道府県 東京
特別区 中央区
地域月島地域
人口情報(2023年11月1日)
人口18,730 人
世帯数8,455 世帯
設置日1965年4月1日
郵便番号104-0053
市外局番03
ナンバープレート品川
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晴海トリトンスクエア
晴海(はるみ)は、東京都中央区にある地名。現行行政地名は晴海一丁目から晴海五丁目。郵便番号は104-0053[1]。明治中期から昭和初期にかけて行われた東京湾澪浚(みおさらい)工事で出た海底の土砂を投下してできた埋立地で、正式な地名が決まる前は月島4号地と呼ばれた。 1931年(昭和6年)4月、第3期隅田川口改良工事により[2]、月島4号地(東京港埋立4号地)の埋め立てが完了した[3][4]。 1933年(昭和8年)、東京市会は市庁舎を四号地(現在の晴海)に移転することを決議し、建設設計のコンペも行われた[2]。しかし反対も多く計画を推進した牛塚虎太郎市長の退任とともに移転案は幻となった[2]。 その後、紀元2600年記念日本万国博覧会の開催地に決まり整備されたが[4]、日中戦争のために、やむなく中止された。この時は入場券も売り出されていたが、1938年7月に中止が決まった際に、払い戻しはされなかった[2]。この万博は、同じく中止となった東京オリンピックと同時開催される予定であった[2]。 1938年9月、万国博覧会事務局の建物が完成したが、万博開催が無期延期となったため、陸軍の傷病兵収容所として使用された[2]。 月島地域はほぼ戦災をまぬがれたが、晴海地域の米軍の接収は1957年(昭和32年)にまでおよんだ[5]。その後、日本住宅公団(現:都市再生機構)などに集合住宅の建設用地として提供され、また小野田セメント(現:太平洋セメント)や日本通運など、主に港湾・物流などに関連する企業へ事業用地として売却された。 晴海埠頭は、最初の外国貿易埠頭として整備され1955年に開業し、拡張工事を経て1960年に完成した[5]。また、東京都港湾局専用線が敷設され、晴海埠頭に貨物列車の入線が可能になった。1958年5月9日に開通式が行われ、雑貨・農水産物・セメントなどが輸送された[5]。 1955年、第1回東京国際見本市を開催[5][6]。その際に晴海の第2会場が好評だったため、1959年、東京国際見本市会場が建設された[5][6]。東京モーターショーやコミックマーケット、エレクトロニクスショー(当時)など、多くの見本市やイベントが開催されるようになった。 東京国際見本市会場は1959年の開場から、1996年まで40年近く使用された。当初は「貿易センター」と呼ばれており、東京モーターショーなど見本市の開催数も限定的であった。貿易センターでは1970年代初頭まで、夏には屋外プール、冬にはドーム館において屋内スケートリンクの営業を行っていた。1970年代になるまでは会場周辺には空き地がかなり残っていたが、多くの見本市が開催されるようになるに従って会場の拡張が繰り返され、周辺の整備が進んだ。 1956年12月、日本住宅公団は15棟(5階建て14棟、10階建て1棟)の晴海団地を建設[5]。
歴史
月島四号地の完成から第二次世界大戦前
第二次世界大戦後