景行天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「景行天皇」
第12代天皇
在位期間
景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日
時代伝承の時代(古墳時代)
先代垂仁天皇
次代成務天皇
誕生垂仁天皇17年
崩御景行天皇60年 143歳
陵所山辺道上陵
漢風諡号景行天皇
和風諡号大足彦忍代別天皇
諱大足彦尊
別称大帯日子淤斯呂和氣天皇
大足日子天皇
大帯日子天皇
大帯日古天皇
大帯比古天皇
父親垂仁天皇
母親日葉酢媛命(開化天皇皇曾孫)
皇后播磨稲日大郎姫(孝霊天皇皇孫)
八坂入媛命(崇神天皇皇孫)
子女櫛角別王
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、日本の第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の父[1]。纒向遺跡付近に都したと伝えられる最後の天皇であり、考古学上、実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定されるが、定かではない。 活目天皇(垂仁天皇)の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと。開化天皇の曾孫)。垂仁天皇37年1月1日に21歳で立太子。 父皇が崩御した翌年に即位。即位2年、3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后との間には大碓皇子、小碓尊らを得ている。即位4年、美濃国に行幸。八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐[1]。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊(16歳)を遣わして川上梟帥
略歴
名
大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
大足彦尊(おおたらしひこのみこと) - 『日本書紀』
大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) - 『古事記』
大足日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 常陸風土記
大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 播磨風土記
大帯日古天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 播磨風土記
大帯比古天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 播磨風土記
漢風諡号である「景行天皇」は、代々の天皇と同様、日本書紀の編纂から50~60年後に淡海三船によって撰進された。 『日本書紀』によれば父帝が崩御した翌年の7月に即位。 即位2年、播磨稲日大郎姫を立后。子には大碓皇子や小碓尊(後の日本武尊)がいた。 即位4年、美濃国に行幸。美人と名高い弟姫を妃にしようと泳宮(くくりのみや)に滞在した。しかし拒絶されたため、姉の八坂入媛命を妃とした。同じころ、美濃国造の2人の娘が美人であると聞いて妃にしたいと思った。そこで大碓皇子を派遣したが、大碓皇子は姉妹の美しさのあまり使命を忘れて密通し役目を果たさなかった。天皇はこれを恨んだと言う。 『古事記』には、天皇の美濃行幸は記されていないが、冒頭の系譜で八尺入日売命を娶って成務天皇らを生んだことを記している。また大碓命と三野(美濃)国造の2人の娘について『日本書紀』と似た伝承を記し、次のような伝承も記している。天皇は朝夕の食膳に参上しない兄(兄の名は記されていないが、一般には大碓命と考えられている)を参上させるため、小碓命によく教え諭すよう命じた。しかし数日しても何も変わりがないため小碓命に聞くと既に教え諭したという。どのように諭したのか聞くと厠に入るのを待ち伏せして打ちのめし、手足を引き千切って投げ捨てたという。「教え諭す」という言葉を「思い知らせる」、つまり処刑だと勘違いしたのである。小碓命、のちの倭建命(ヤマトタケル)は恐れられ疎まれ、危険な遠征任務に送り出されるようになった。なお、これはあくまで『古事記』での話であり、『日本書紀』では大碓皇子の惨殺はない。日本武尊(ヤマトタケル)と天皇の仲も後述するように良好である。 即位12年8月、熊襲(現在の南九州に居住したとされる)が背いたので征伐すべく天皇自ら西下。
事績
美濃行幸
九州巡幸
同年11月、日向国に入り行宮(かりみや)を設けた。これを高屋宮という。12月、襲国にいるという厚鹿文 (熊襲梟帥、くまそたける)[2][3]を討つ計画を立てた[4]。熊襲梟帥は強大で戦えばただでは済まないことがわかっていた。そこで熊襲梟帥の娘である市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の姉妹に贈り物をして妃にし、熊襲の拠点を聞きだした上で奇襲することになった。姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。あるとき市乾鹿文は兵を一、二人連れて熊襲梟帥のところに戻った。そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。そこまでは考えていなかった天皇は市乾鹿文の親不孝を咎めて誅殺し、妹は火国造に送り飛ばしてしまった。翌年夏に熊襲平定は完了し、その地の美人の御刀媛を妃として豊国別皇子を得た。日向国造の祖である。
即位17年、高屋宮に留まること六年経ち、子湯県の丹裳小野で朝日を見てこの国を「日向」と名付けた。そして野原の岩の上に立ち、都を思って思邦歌(くにしびのうた)を詠んだ。
愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)[注 1]
命の全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 白橿が枝を 髻華(うず)に挿せ この子
即位18年、3月に都へ向け出立。夷守(宮崎県小林市)で諸縣君の泉媛の歓待を受けた。熊県(熊本県球磨郡)に進み、首長である熊津彦兄弟の兄を従わせ弟を誅殺した。葦北(同葦北郡)、火国(熊本県)、高来県(長崎県諫早市または佐賀県多久市)を経て玉杵名邑(熊本県玉名市)で津頬という土蜘蛛を誅殺。