景浦將
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景浦 將晩年の景浦(1943年撮影)
基本情報
国籍 日本
出身地愛媛県松山市
生年月日 (1915-07-20) 1915年7月20日
没年月日 (1945-05-20) 1945年5月20日(29歳没)
身長
体重173 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手投手三塁手一塁手
プロ入り1936年
初出場1936年4月29日
最終出場1943年11月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


愛媛県立松山商業学校

旧制立教大学(中退)

大阪タイガース
阪神軍
(1936 - 1939, 1943)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1965年
選出方法特別表彰
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景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手投手内野手)。

日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人で、フィリピンにて戦死している。本名が「將」だったことから「鬪將(闘将)」の異名をとり[1][2]、阪神ファンの間では「零代ミスタータイガース」としても知られている[3]

旧字体が使用できない新聞等のメディアでは「景浦将」の表記を用いることがある。

水島新司の漫画「あぶさん」に登場する景浦安武のモデルとなった一人。当時、朝日軍に所属していた景浦賢一は実弟である。
経歴
プロ入り前松山商業野球部時代の景浦(1932年)

1915年7月20日愛媛県松山市で材木商を営む家に生まれる。少年時代は小柄で痩せており、当初は野球ではなく剣道に打ち込んでいた。甲子園の強豪でもある松山商業学校に進学後も2年生までは剣道部に所属していたが、後の景浦の長打力の源はこの剣道による猛稽古で鍛えられた強靭な手首と足腰にあるとも言われている。景浦の長打力については剣道以外にも「野球部への入部祝いとして、父からプレゼントされた手製のバット(桜の木)を毎日欠かさず素振りして長打力が付いた」とも言われており[4]、いずれにせよ景浦の地道な努力が実を結んだとされる。

3年生のある日、野球部で選手が不足する事態となった際に当時の指導者だった後藤二郎から勧誘されて野球部に入部した。景浦は入部した途端に打球の鋭さや投じた球の速さによってすぐに頭角を現し、三森秀夫(のちに法政大学から東京巨人軍へ入団)、高須清(のちに早稲田大学から大日本麦酒を経てイーグルス入団)らと共に第8回選抜中等学校野球大会(ベスト8)、第17回全国中等学校優勝野球大会(ベスト4)に出場するなど成績を残す。1932年第9回選抜中等学校野球大会では決勝戦で楠本保率いる兵庫県立明石中学校を接戦の末に下して優勝を果たしたほか、同年夏の第18回全国中等学校優勝野球大会でも決勝戦(対中京商業学校戦)において2回裏から先発・三森の2番手として登板し、9回表に自ら三塁打を放って同点に追いつく執念を見せる。しかしその直後、中京商業学校の選手が放った打球が景浦の左足に直撃して降板し[5]、三塁の守備に就くも足の状態が悪いことに気付いた中京商業側が景浦が守る三塁側へ執拗なバント攻めを展開した挙句、延長11回にサヨナラ負けを喫して準優勝となった。

松山商業学校を卒業後は立教大学へ進学し、1年生ながら公式戦において打者として長打力を発揮する一方、投手として4勝1敗の好成績を残し、立教大学の優勝に貢献した。景浦の1学年上に坪内道典がおり、景浦が戦死するまで親交が続いたほか、立教大学在籍中は帰郷する度に母校・松山商業学校へ出向き、後輩らに1人1時間のノックを浴びせた。このノックを浴びた千葉茂は「(景浦が)戻ったと聞いただけで身体が震えた」という[4]
プロ入り後


景浦の豪快なスイング投手としても活躍

景浦は大学卒業を待たず、1936年2月28日に立教大学を中退し、大阪タイガースと入団契約を取り交わした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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