時1866年6月14日 ? 8月23日
(2ヶ月1週2日間)
場所ボヘミア、ドイツ、イタリア、アドリア海
結果プロイセン主導の連合軍の勝利
領土の
変化
プロイセンがバイエルンとヘッセン=ダルムシュタットの一部、およびハノーファー、ヘッセン=カッセル、ホルシュタイン、シュレースヴィヒ、ナッサウ、フランクフルト
(英語版)の併合 プロイセン王国
イタリア王国
メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国
オルデンブルク大公国
アンハルト公国
ブラウンシュヴァイク公国
ザクセン=アルテンブルク公国
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国
リッペ侯国
シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国
ヴァルデック侯国
自由ハンザ都市ブレーメン
自由ハンザ都市ハンブルク
自由ハンザ都市リューベック
ドイツ連邦
オーストリア帝国
ザクセン王国
バイエルン王国
ヴュルテンベルク王国
ハノーファー王国
バーデン大公国
ヘッセン大公国
ヘッセン選帝侯国
ロイス=グライツ侯国
ザクセン=マイニンゲン公国
シャウムブルク=リッペ侯国
ナッサウ公国
自由都市フランクフルト(英語版)
指揮官
ヴィルヘルム1世
ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 フランツ・ヨーゼフ1世
アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン
ルートヴィヒ・フォン・ベネディク
戦力
プロイセンおよび同盟国 500,000
イタリア 300,000オーストリアおよび同盟国 600,000
被害者数
死傷 37,000(普伊)死傷 71,000(墺)
普墺戦争(ふおうせんそう、独: Deutscher Krieg)は、1866年に起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった。ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した。7週間戦争やプロイセン=オーストリア戦争[1]とも呼ばれる。この戦争によって、ドイツ統一はオーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった。
背景ドイツ諸国(1815-1866);赤い線はドイツ連邦の領域を指している
19世紀後半、第二次産業革命の波はドイツにも流れ込んだ。しかし、小国分立で十分な経済圏が無い当時のドイツでは、重工業の健全な発展は不可能であった。
このままでは弱小な農業国から抜け出せないという焦りから、ドイツ民族の統一を求める民族主義が各地で高まったが、具体的な統一方法では意見が分かれた。特に、領土の広さだけで見れば、ドイツ本土全体に匹敵するほどの広大な領土を中東欧に持つ一方、ドイツ人地域(現在のオーストリアの版図に近い)を中枢とするとはいうものの、多数のスラヴ人・マジャール人を支配するオーストリア帝国を、統一ドイツに含めるか否かは大問題であった。
ドイツ民族以外を統一ドイツに入れるわけにはいかないという民族主義的意見、オーストリアを入れれば事実上他の地域は属国になってしまうという政治的意見、逆に現実的にはオーストリアには逆らえないという意見等があった。非ドイツ人地域を独立させてドイツ人地域オーストリアを入れる大ドイツ主義と、それを容認しない小ドイツ主義に、非ドイツ人地域もふくめた統一国家を目指す中欧帝国構想の3つの意見が分れ、それを政治的に利用する国が現れた。
大ドイツ主義は多数派の理想ではあったものの、当然オーストリアが拒否した。オーストリアの掲げる中欧帝国構想を拒否しての小ドイツ主義は、精強な軍隊を持ち、ドイツでも一目置かれていたプロイセン王国が旗手となった。
過去にはナポレオン戦争やポーランド分割で協調体勢も見せていた両国だったが、プロイセンが首相オットー・フォン・ビスマルクの下、軍備増強の強硬な政策をとるに至り、オーストリアとの対立が表面化する。プロイセンは一旦はオーストリアに融和的な姿勢を示し、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)ではオーストリアと連合してデンマーク王国と戦い、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国をプロイセン・オーストリア両国の共同管理とした。しかし、これはビスマルクの策略であった。プロイセンはやがてオーストリア管理地域に介入し、オーストリアを激怒させた。ここに普墺戦争が開始される。 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の後、ガスタイン条約によりデンマーク王国より支配権が獲得され、シュレースヴィヒにはプロイセン軍、ホルシュタインにはオーストリア軍が駐屯していた。両州の処遇を巡ってプロイセン王国とオーストリア帝国は対立を深めた。
開戦まで