晋朝相国・丞相・司徒の一覧は中国晋王朝時代(魏朝下の258年から東晋の420年)において魏朝の晋・西晋・東晋の三国で百官の頂点である相国・丞相の官位に就いた者達の一覧である。司徒の官位についた者達も付記する。
『晋書』職官志で、「丞相・相国に就任した者は趙王倫・梁王?・成都王穎・南陽王保・王敦・王導らであり、何れも人並外れた人々であった。」と書かれている通り、王導以外は謀反・皇帝廃立を図るほどの実力者が多く、八王の乱・王敦の乱を起こしたものたちや、司馬睿 のように宗室出身者で後に帝位についた人物も多かった。東晋の最後の皇帝・恭帝司馬徳文も即位前は司徒であり、即位の後、相国劉裕に禅譲後暗殺された。
特に相国の官にあった四名は全員帝位をうかがっており、うち名目的に禅譲を受けた劉裕のみ革命に成功したが、ほかの三名は敗れている。
那珂通世はこの頃の丞相は姦雄が帝位簒奪を狙うために就任する役職であり、逆に司徒は位は高くても実権は殆どなかったとしている。[1] 『晋書』巻三・帝紀第三・世祖武帝より:「(咸熙二年)九月戊午,以魏司徒何曾為(晋国)丞相……」 序次爵位姓名在位年数在位時間皇帝 『晋書』巻四・帝紀第四・恵帝より:「(永康元年四月)甲午,倫矯詔大赦,自為相国、都督中外諸軍,如宣文輔魏故事,追復故皇太子位。」 代爵位姓名在位年数在位期間皇帝 『晋書』巻三・帝紀第三・世祖武帝には、「(泰始三年九月甲申)……司空荀を司徒と為す。」とある。司徒は竹林の七賢の山濤などが就任したが、貴族の名誉職であり、ほぼ官邸では清談に打ち興じていたようである。司徒王衍は趙漢の石勒に捕らえられたときに「私は若い頃から仕事が嫌いで何の実権もなかった」と弁解している。実権を持つ例外的な司徒としては謝安がいるが、実権をうとまれて短期間で退職した。 序次爵位姓名在位年数在位時間皇帝
丞相
晋王
曹魏晋国丞相(258年?265年)
1 朗陵孝公何曾1年265年元帝(魏)
武帝
晋朝丞相(265年?420年)
1 梁孝王司馬?1年300年?301年恵帝
2 成都王司馬穎2年304年?306年
3 東海孝献王司馬越4年307年?311年懐帝
4左 琅邪王[2]司馬睿 2年313年?315年愍帝
4右 南陽王[3]司馬保2年313年?315年
5 琅邪王[2]司馬?2年315年?317年
6 武昌郡公王敦1年322年元帝
7 始興文献郡公王導1年338年?339年成帝
8 琅邪王[4]司馬c6年366年?372年廃帝
贈 南郡宣武公[5]桓温?373年贈
9 南郡公[6]桓玄1年402年安帝
相国
晋朝相国(265年?420年)
1 趙王司馬倫1年300年恵帝
2 南陽元王司馬保2年315年?317年愍帝
3 南郡公[6]桓玄1年403年?404年安帝
4 宋公[7]劉裕2年418年?420年安帝
恭帝
司徒
晋朝司徒(265年?420年)
1 義陽成王司馬望2年265年?267年武帝
2 臨淮康公荀2年267年?269年
3 樂陵武公石苞4年269年?273年
4 朗陵孝公何曾5年273年?278年
5 廣陸成侯李胤4年278年?282年
6 新沓康伯山濤1年282年?283年
7 劇陽康子魏舒3年283年?286年
8 安昌元公石鑒4年286年?290年
贈 濟北成侯荀勗?289年贈
9 京陵元公王渾7年290年?297年武帝
恵帝
10 安豐元侯王戎3年297年?300年恵帝
11 朗陵康公何劭
12 梁孝王司馬?2年301年?303年
13 安豐元侯王戎2年303年?305年
14 大陵元公温羨
15 無王衍2年307年?309年
16 東海孝獻王司馬越2年309年?311年
17 靈州縣公傅祗
18 無梁芬
脚注^ 那珂通世『支那通史』岩波文庫中冊、P234
^ a b 317年に晋王を称し、318年に東晋皇帝即位。
^ 後に自立して晋(元)王即位。
^ 372年、東晋皇帝に即位。
^ 404年桓玄が楚宣武帝の尊号を贈った。
^ a b 父の桓温の爵位を継承し、404年皇帝に即位。
^ 419年宋王に封じられ、420年皇帝の地位を禅譲され、南朝宋を建国。
^ 父の何曾の爵位を継いでいる。
^ 342年即位して東晋の康帝となった。
^ 372年即位して簡文帝となった。
^ a b 419年即位して東晋最後の皇帝恭帝となった。