中華人民共和国 山西省 晋中市
平遥古城平遥古城
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度41分 東経112度44分 / 北緯37.683度 東経112.733度 / 37.683; 112.733
晋中市(しんちゅう-し)は、中華人民共和国山西省東部に位置する地級市。 山西省中部に位置し、陽泉市、太原市、呂梁市、臨汾市、長治市、河北省に接する。市内は東高西低の地勢となっており、殆どが海抜1,000mを越える丘陵地帯となっており、最も低い霊石県南西部の汾河沿岸でも海抜547mとなっている。 春秋時代には晋が晋中西部に祁県・?県(現在の介休市)・?水県(楡次区)・馬首県(寿陽県)の4県を設置し、西部は白狄による肥国が存在していた。戦国期になると韓・趙・魏の三国が割拠していた。 秦が中国統一すると、前221年、晋中地区は晋陽県が設置され太原郡の管轄とされ、後漢には太原郡・西河郡・楽平郡の3郡が設置されている。南北朝時代には中国北部を統治した北魏により并州(太原郡・楽平郡・郷郡 隋代になると583年(開皇3年)に郡制廃止に伴い并州・介州・韓州・遼州の4州が設置されたが、607年(大業3年)に郡制が再施行され、太原郡・西河郡両郡が、更に行政区画の整理が行われ太原郡・介休郡に改編された。
地理
歴史
中華人民共和国が成立すると1949年に山西省の管轄となり、楡次専区が設置され、公署が楡次県に設置された。1958年には楡次専区は晋中専区と、1970年には更に晋中地区と改称された。
1999年9月24日、晋中地区及び県級市としての楡次市の廃止が決定され、新たに晋中市が設立された。2000年10月、晋中市人民政府が正式に成立し現在に至っている。
行政区画山西商人の邸宅。霊石県の王家大院
2市轄区・1県級市・8県を管轄する。
市轄区:
楡次区・太谷区
県級市:
介休市
県:
昔陽県・霊石県・祁県・左権県・寿陽県・和順県・平遥県・楡社県
晋中市の地図 この節の出典[1][2]
楡次区太谷区楡社県左権県和順県昔陽県寿陽県祁県平遥県霊石県介休市
年表
楡次専区
1949年10月1日 - 中華人民共和国山西省楡次専区が成立。楡次市・楡次県・平定県・盂県・寿陽県・祁県・太谷県・介休県・霊石県・平遥県・昔陽県・和順県・左権県・楡社県・陽泉工鉱区が発足。(1市13県1工鉱区)
1949年11月23日 - 楡次市が楡次県に編入。(13県1工鉱区)
1951年3月16日 - 汾陽専区汾陽県・文水県・交城県・清源県・徐溝県・孝義県を編入。(19県1工鉱区)
1951年12月11日 - 陽泉工鉱区が市制施行し、地級市の陽泉市に昇格。(19県)
1952年6月13日 - 清源県・徐溝県が合併し、清徐県が発足。(18県)
1952年6月17日 - 興県専区臨県・方山県・離石県・中陽県を編入。(22県)
1954年4月9日 (1市21県)
離石県・方山県が合併し、離山県が発足。
楡次県の一部が分立し、楡次市が発足。
1955年2月15日 - 左権県の一部が河北省邯鄲専区武安県に編入。(1市21県)
1955年12月26日 - 平定県の一部が河北省石家荘専区井?県に編入。(1市21県)
1957年3月22日 - 平定県の一部が河北省石家荘専区井?県に編入。(1市21県)
1958年5月29日 - 楡次県が楡次市に編入。(1市20県)
1958年6月4日 - 陽泉市を編入。陽泉市が県級市に降格。(2市20県)
1958年8月29日 - 交城県の一部が忻県専区陽曲県の一部と合併し、太原市河口工鉱区となる。(2市20県)
1958年9月5日 - 平定県が陽泉市に編入。(2市19県)
1958年11月3日 - 楡次専区が晋中専区に改称。
晋中地区
1958年11月21日 (2市7県)
清徐県が太原市河西区
盂県・昔陽県が陽泉市に編入。
寿陽県が楡次市に編入。
祁県が太谷県に編入。