時雨の記
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時雨の記
監督
澤井信一郎
脚本伊藤亮二
澤井信一郎
原作中里恒子
出演者吉永小百合
渡哲也
佐藤友美
林隆三
原田龍二
音楽久石譲
撮影木村大作
製作会社セントラル・アーツ
フジテレビジョン
東映ビデオ
配給東映
公開1998年11月14日
上映時間116分
製作国 日本
言語日本語
配給収入5億円[1]
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『時雨の記』(しぐれのき)は1977年発表の中里恒子小説(文藝春秋刊)、それを元にした1998年製作の日本映画吉永小百合主演、監督澤井信一郎

古都鎌倉紅葉京都、晩秋の飛鳥路を舞台につつましく揺るぎない大人の愛の物語を描く[2][3]

本項では、映画公開前に同小説を原作としたテレビドラマについても記述する。
あらすじ

大手建設会社専務・壬生孝之助は、20年前に心に留めた女性・堀川多江に偶然再会し、翌日、鎌倉を訪ねる。夫を亡くし華道教授をしながらひっそりと暮らしてきた多江は、戸惑いながら壬生の少年のようなひたむきさに惹かれてゆく。世俗価値観を離れて、同じものに響き合える人と残りの人生を生きてみたい、二人で西行定家のように隠れ住みたいと願う。しかし新しい生活を決意した壬生には病魔が迫っていた。京都嵯峨野で発作を起こした壬生を抱きしめる多江。二人に時雨が降り注いで過ぎてゆく[3]
キャスト

堀川多江:
吉永小百合

壬生孝之助:渡哲也

壬生佳子:佐藤友美

庄田:林隆三

壬生浩二:原田龍二

田村:天宮良

小早川奈津:岩崎加根子

古谷悠子:細川直美

井川朋子:裕木奈江

雅代:山辺有紀

壬生利之:倉田てつを

壬生晴美:白鳥夕香

沼田:佐藤允

祖父江:前田吟

魚屋:徳井優

野村:神山繁

三田:津村鷹志

スタッフ

監督:
澤井信一郎

原作:中里恒子

脚色:伊藤亮二、澤井信一郎

企画:黒澤満村上光一

プロデューサー:六鹿英雄、久板順一朗、岡田裕、松下千秋、服部紹男

撮影:木村大作

音楽:久石譲

美術:桑名忠之

製作
企画

企画は吉永小百合[2][4][5]。中里恒子の同名小説は四十代と五十代の恋を描き、1977年の発表当時"時雨族"なる流行語を生んだ[3][6][7]。吉永は発表直後に本を読み感動し[8]、以来、年に一・二度読み返し、いつかは映画化したいと思い続けた[9]。しかし、自身がこういうものをやりたいと口に出しても実らないことが多く、ずっと胸にしまっていた[8]。具体的なことは何もなかったが、吉永は個人的に動き、既に没していた中里の代理人に自分の考えは伝えていた[10]東宝に打診するも良い返事は得られず[10]岡田裕介に企画を持ち込むも、この時は東映でも企画が通らなかった[11]。1997年に吉永が日活時代から付き合いの長いセントラル・アーツ代表の黒澤満プロデューサーに相談したところ[12][13][14]、「もう少し待った方がいい」と進言された[12]。念のため文藝春秋に映画化の状況を聞くと「多くの女優から中里の原作を映画化したいというオファーがある」という話を聞き[12]、代理人からも同様のオファーがあると知らされて「それでは悲しすぎる……」と思った吉永は自らに一任するよう談判したところ、オファーが先行していた吉永を優先するよう計らわれた[10]。さらに黒澤からも「せめて映画化権だけでも取っておかないといけない」とアドバイスを受け、版権元との交渉の末、「吉永さんがやって下さるなら」と映画化権を獲得した[6][12]。吉永はフジテレビと出資交渉し、人件費などが安く済むとしてセントラル・アーツ、フジテレビ、東映ビデオの共同製作となった[10]
製作の決定

しかし当時の日本映画を取り巻く状況では、このような性描写のないオーソドックスな大人の恋愛映画を製作できる見込みはなかった[12][14][15]。1990年代の日本映画界は、アニメーション映画テレビ局主導による映画に押され、どこも自社製作映画のヒットが出せず[16][17][18]、年を追うごとにこの傾向が強くなった[18]。東映は邦画大手の中ではコンスタントに自社製作を続けてはいたが[19]、1970年代から制作投資を控えて、強固な興行網構築に乗り出した東宝と差が広がっていくばかりだった[16]。東映は動画が手掛けるアニメの海外での版権収入が1990年代に伸びて[20][21][22]、東映会長の岡田茂はアニメがヒットしている間に何らかの手を打つよう檄を飛ばしていたが[17]、稼ぎ頭だった東映Vシネマを主力とするビデオ事業もオリジナルビデオの過剰乱立とブームの沈静化により1994年頃から売上げを落とし厳しい状況が続いた[23]

特に伝統のヤクザ映画赤字番組が続出し[18][24][25][26]配収5000万円などと[27]、配収が一億円を割るというメジャー映画会社の劇場公開映画と思えない作品を出し始めた[18][25]。いくら東映は二次使用、三次使用が強いといっても[21][22]、あまりの不入り映画はテレビ局にも放映権を高く売れず、レンタルビデオ店も引き取らない[28]。1994年には年間の本番線約半分にアニメが乗る状況となった[25]

岡田は1990年代前後には東映一社で版権を持っておいた方がいいと[29]、提携に頼らない自前で映画を作れと指示していたが[29][30][31]、自社製作映画のあまりの成績の悪さから1996年に遂に激怒し[5][32]、東映発足以来堅持して来た自社製作路線を軌道修正[5]リスクの軽減やメディアミックス展開を狙いとした提携作品の強化を指示し[5]、本作が製作された1998年は東映発足以来、自社製作が0になった[5]

1997年は岡田がプロモートした[33][34]失楽園』と『新世紀エヴァンゲリオン』がメガヒットしたため[33]、たまたま配収で前年比68.8%伸びたが[35]、『失楽園』の映画とテレビドラマの大ヒットもあって性的描写が話題になる不倫劇が大流行となり[4][12][15]、性描写一切なしで、いかにもメロドラマてんこ盛り純愛ものを大真面目で作ろうという考えは、当時の状況では浮世離れしていた[14]。撮影の木村大作は後に「今世紀最大の冒険映画」と評した[12]

東映は岡田がOKしないと映画は製作されないため[36][37]、吉永と渡哲也が二人で岡田に直談判に打って出て[13]『時雨の記』の製作を頼み込んだものの、岡田は「気持ちは判るが、客が来ないものに東映が出資できない」と突っ撥ねたが、吉永は「絶対来させます。私、確信持って来させます」と言い切り、傍らの渡も「二人のギャラは要らない。ギャラなしで切符(前売券)も売るから、とにかく作ろう」と言い切った[13]。渡と岡田は古い仲だった[38]。岡田は「損する訳にはいかないから」となお拒否したところ、二人が「身銭切っても製りたい、二人の永年の想いで今ここに来ている」とまで訴える姿に驚愕し、岡田は「これは買いだ」と判断し製作を決めたが[13]、「その代わり宣伝も徹してやってくれよ」と余分な条件を付け加えた[13]。実際に吉永、渡はノーギャラで、撮影費用を抑えるために渡は石原プロモーションの車を使っていたがそういったものがない吉永はスタッフが運転するライトバンで移動、それほど彼女がどうしても演じたい作品だった[10]

他の吉永主演映画と違い、クランクイン前の主要スタッフによる大々的な製作発表会見なしに撮影を開始した[10]
脚本


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