時祷書(じとうしょ、ラテン語: horae, 英語: primer, book of hours)は、現存するものの中ではもっとも多く存在している中世装飾写本である。内容はそれぞれ異なっているが、祈祷文や詩編を集成し、内容に合わせた挿絵をつけて、ローマ・カトリック教会のキリスト教徒としての信仰・礼拝の手引きとして編集したものである。正教会の時課を収録した祈祷書については「時課経」を参照
通常はラテン語で書かれていたが、一部もしくは全体がヨーロッパの日常語で書かれている例もある。数百点の時祷書が今日まで残っており、世界中の図書館や個人のコレクションの中に散在している。
通常、時祷書と呼ばれる中世の写本は、聖務日課書(修道院で伝えられた礼拝について書いた本)を短縮したものである。時祷書は、修道院制度の要素を信徒としての生活に組み込みたいと考えた一般信徒のために編纂されたものである。定時の祈りには、基本的に数編の賛美歌の朗読・唱和に規定の祈りの言葉が伴った。
通常の時祷書の内容は以下のようなものである。
15編の登上の歌を加えた聖母の小聖務
7編の悔罪詩を加えた死者のための小聖務
聖人連祷
ほとんどの時祷書はこのような基本的な内容から始まり、様々な祈祷や礼拝に進む。ミサやキリストの受難への瞑想の際の祈りで使う、Obsecro te(あなたにせつに願う)とO intemerata(おお、けがれなき者よ)の二つの聖母の祈りが加えられていることが多い。 時祷書に書かれている祈りの言葉は元々個人的な祈りの言葉であったが、12世紀ごろには決まった典礼上の祈祷書が修道院の中で成立していた。1215年の第4ラテラン公会議の後は、聖職者でない平信徒も修道院の祈祷書に興味を示すようになった。これらの多くは女性用に作られたものであった。1340年代の黒死病の流行の後、平信徒はより強く祈祷書に興味を持つようになった。 個人的な時祷書を持つことができたのは王族・貴族・富豪だけとしばしば言われているが、実は1240年ごろ書かれた最初期の時祷書の例では、女性の平信徒のために書かれオックスフォード近くの修道院が所有していたとみられている。これはペーパーバックよりも小さい本であったが、主要な書き始めには大いに装飾が施され、ページ全体にわたるミニアチュールが数点掲載されていた。時には、時祷書に書かれた祈りの文句に、所有者のために作られた特別な詩句や、嗜好や性別に合わせた修正が加えられることがあり、所有者の個人名を祈りの文句に加えることもあった。現存する時祷書の中には所有者の肖像画や、時には紋章を記載しているものもある。来歴や献辞が書かれていない場合、こういった記述や、カレンダーがある場合はそこで取り上げられた聖人の選び方が最初の所有者を特定する主要な手がかりとなる。 15世紀までの間、様々な出版業者がオランダやフランスで時祷書を大量生産した。15世紀の終わりまでには、出版技術の進歩によって時祷書はより手に入りやすくなり、時には平民や召使いさえも未製本の時祷書を個人用に手に入れられるようになった。これによって時祷書は詩編以上にポピュラーになっていった。 多くの時祷書が豪華な装飾を施されているため、中世キリスト教の図像学と同様、時祷書は15・16世紀の重要な生活記録となる。時祷書の装飾の方法には、宝石をあしらえたカバー、肖像画、紋章、膨大なイラスト、本文の装飾、境界線の装飾などもある。多くは持ち運びしやすいようガードルブックの形に製本された。ジョン・タルボットのタルボット時祷書 (Talbot Hours) のように、多くは所有者(タルボット時祷書の場合は妻)が、聖母子に祈りを捧げてひざまずく肖像画が含まれている。連作の大判ミニアチュールはしばしば日々の努め
歴史
装飾
時祷書の価値は、富裕層にとって敬虔かそうでないかを示す重要なステータスシンボルにもなった。富豪は、時には自らが制作依頼した時祷書の装飾の善し悪しを競争することもあった。また、ひいきにしている子供・友人・家来や、時には忠誠を示すために君主へと、贈り物として人手に渡ることもあった。母親がみずからの本を長女に譲り、同様に数世紀に渡って代々受け継がれた時祷書もある。多くの女王は寵愛深い侍女に時祷書を譲った。
長く存在する時祷書には、新しい所有者に合わせた修正が加えられることもあった。リチャード3世を破った後、ヘンリー7世はリチャードの時祷書をヘンリーの母に贈った。そしてヘンリーの母は内容を修正して自分の名前を時祷書に記載したのである。