時津海正博
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この項目では、1990?2000年代の幕内力士について説明しています。1950年代の十両力士については「時津海正男」をご覧ください。
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時津海 正博

まわし姿の時津風親方(2010年)
基礎情報
四股名時津海 正博
本名坂本 正博
生年月日 (1973-11-08) 1973年11月8日(50歳)
出身長崎県福江市(現・五島市
身長184cm
体重137kg
BMI40.47
所属部屋時津風部屋
得意技右四つ・寄り
成績
現在の番付引退
最高位東前頭3枚目
生涯戦歴466勝485敗43休(70場所)
幕内戦歴322勝385敗43休(50場所)
優勝十両優勝2回
技能賞4回
データ
初土俵1996年3月場所(幕下付出)[1]
入幕1998年9月場所[1]
引退2007年9月場所[1]
引退後時津風部屋 師匠
趣味釣り、麻雀、トレーニング(引退後)
備考
2015年10月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

時津海 正博(ときつうみ まさひろ、1973年11月8日 - )は、長崎県福江市(現・五島市)出身で時津風部屋に所属した元大相撲力士。本名は坂本 正博(さかもと まさひろ)。東京農業大学卒業。最高位は東前頭3枚目(2001年11月場所)。身長184cm、体重137kg、血液型はA型。得意手は右四つ・寄り。趣味は釣り、麻雀、トレーニング(引退後)。
人物

農家の二男に生まれ、父の影響で2・3歳位の時から宮相撲に出場した。小学校では野球、中学校では柔道をやっていたが、部員が足りず休部状態に陥っていた相撲部を再興し、自宅の倉庫を稽古場に改造し、相撲を続けた。長崎県立諫早農業高等学校では相撲に専念し、東京農業大学でも活躍した。しかし、4年生の時は企業に就職しようと考え、印刷会社の試験に合格し、また父からアマチュア相撲の強豪である和歌山県庁への就職も勧められたが、アマチュアよりプロで取る方がいいという本人の意志で時津風部屋に入門。1996年3月場所、幕下付出初土俵[1]

時津海が入門した頃はまだ学生相撲出身者に対する風当たりが強かったため、巡業では他の部屋の錚々たる関取衆のかわいがりに遭った。また、新潟にあった部屋の夏合宿場で、炎天の下非常に厳しい稽古を積まされた。14代時津風も、稽古場では何も言葉を発さない寡黙な人物であったため威厳があって怖く、大卒であり早く関取に上がりたいという気持ちもあって必死で努力した[2]

1998年9月場所新入幕。以降は主に幕内中位で活躍し、2005年5月場所まで41場所連続で幕内の地位を維持し続けた。2001年から2003年あたりが全盛期で、この間に3度の技能賞を受賞。2001年7月場所、婚約の効果か千秋楽勝てば三賞受賞という1番に勝ち初受賞。2002年1月場所、結婚式が控えていたからか勝てば三賞受賞という1番にまたも勝利し2度目の受賞。2003年7月場所の11日目には大関栃東を破り単独トップに立つ活躍も見せた[1]。その栃東を破った2003年7月場所11日目の取組は、相手に左前ミツを取られたものの、これを持ち前の技術で切ると攻勢に転じ、右差し左上手の体勢から寄り切って相手を下した、という内容であった[3]。幕内中位で勝ち越すことが何度もあったが最高位は前頭3枚目と、番付運がなかった[注 1]。また、大関昇進前ではあるが琴光喜に強く、5勝3敗と勝ち越している。右四つ左上手での理詰めの相撲は好角家をうならせたが、2005年5月場所は西前頭12枚目で3勝12敗と大負けし、翌7月場所は1998年7月場所以来、42場所ぶりに十両に陥落した。以後は怪我もあって十両に落ちることが増え、幕内下位に低迷した。それでも2005年7月には2度目の十両優勝を果たし、2006年1月場所では14日目に白鵬に敗れるまで優勝争いに加わる活躍で12勝3敗と大勝して4回目の技能賞を獲得し、西前頭14枚目という当時最も低い地位[注 2]での三役揃い踏みを経験するなど長く地力を保ち続けた。

しかし2007年10月9日、同年6月に発生した時津風部屋力士暴行死事件を受け、日本相撲協会より解雇された部屋師匠で15代時津風こと山本順一の後継として部屋を継承するために急遽現役引退することとなり、日本相撲協会に引退届および年寄時津風襲名届を提出した。時津海自身は「まだ燃え尽きていない」と現役へのこだわりがあったが、今回の新弟子死亡事件からの出直しを図るため、14代時津風(豊山勝男=入門時の師匠)を始めとする関係者の説得を受け入れ、16代時津風となり、部屋の師匠として名門復活に全力を注ぐこととなった[4][1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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