時津海正博
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、1990?2000年代の幕内力士について説明しています。1950年代の十両力士については「時津海正男」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}本来の表記は「時津海」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

時津海 正博

まわし姿の時津風親方(2010年)
基礎情報
四股名時津海 正博
本名坂本 正博
生年月日 (1973-11-08) 1973年11月8日(50歳)
出身長崎県福江市(現・五島市
身長184cm
体重137kg
BMI40.47
所属部屋時津風部屋
得意技右四つ・寄り
成績
現在の番付引退
最高位東前頭3枚目
生涯戦歴466勝485敗43休(70場所)
幕内戦歴322勝385敗43休(50場所)
優勝十両優勝2回
技能賞4回
データ
初土俵1996年3月場所(幕下付出)[1]
入幕1998年9月場所[1]
引退2007年9月場所[1]
引退後時津風部屋 師匠
趣味釣り、麻雀、トレーニング(引退後)
備考
2015年10月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

時津海 正博(ときつうみ まさひろ、1973年11月8日 - )は、長崎県福江市(現・五島市)出身で時津風部屋に所属した元大相撲力士。本名は坂本 正博(さかもと まさひろ)。東京農業大学卒業。最高位は東前頭3枚目(2001年11月場所)。身長184cm、体重137kg、血液型はA型。得意手は右四つ・寄り。趣味は釣り、麻雀、トレーニング(引退後)。
人物

農家の二男に生まれ、父の影響で2・3歳位の時から宮相撲に出場した。小学校では野球、中学校では柔道をやっていたが、部員が足りず休部状態に陥っていた相撲部を再興し、自宅の倉庫を稽古場に改造し、相撲を続けた。長崎県立諫早農業高等学校では相撲に専念し、東京農業大学でも活躍した。しかし、4年生の時は企業に就職しようと考え、印刷会社の試験に合格し、また父からアマチュア相撲の強豪である和歌山県庁への就職も勧められたが、アマチュアよりプロで取る方がいいという本人の意志で時津風部屋に入門。1996年3月場所、幕下付出初土俵[1]

時津海が入門した頃はまだ学生相撲出身者に対する風当たりが強かったため、巡業では他の部屋の錚々たる関取衆のかわいがりに遭った。また、新潟にあった部屋の夏合宿場で、炎天の下非常に厳しい稽古を積まされた。14代時津風も、稽古場では何も言葉を発さない寡黙な人物であったため威厳があって怖く、大卒であり早く関取に上がりたいという気持ちもあって必死で努力した[2]

1998年9月場所新入幕。以降は主に幕内中位で活躍し、2005年5月場所まで41場所連続で幕内の地位を維持し続けた。2001年から2003年あたりが全盛期で、この間に3度の技能賞を受賞。2001年7月場所、婚約の効果か千秋楽勝てば三賞受賞という1番に勝ち初受賞。2002年1月場所、結婚式が控えていたからか勝てば三賞受賞という1番にまたも勝利し2度目の受賞。2003年7月場所の11日目には大関栃東を破り単独トップに立つ活躍も見せた[1]。その栃東を破った2003年7月場所11日目の取組は、相手に左前ミツを取られたものの、これを持ち前の技術で切ると攻勢に転じ、右差し左上手の体勢から寄り切って相手を下した、という内容であった[3]。幕内中位で勝ち越すことが何度もあったが最高位は前頭3枚目と、番付運がなかった[注 1]。また、大関昇進前ではあるが琴光喜に強く、5勝3敗と勝ち越している。右四つ左上手での理詰めの相撲は好角家をうならせたが、2005年5月場所は西前頭12枚目で3勝12敗と大負けし、翌7月場所は1998年7月場所以来、42場所ぶりに十両に陥落した。以後は怪我もあって十両に落ちることが増え、幕内下位に低迷した。それでも2005年7月には2度目の十両優勝を果たし、2006年1月場所では14日目に白鵬に敗れるまで優勝争いに加わる活躍で12勝3敗と大勝して4回目の技能賞を獲得し、西前頭14枚目という当時最も低い地位[注 2]での三役揃い踏みを経験するなど長く地力を保ち続けた。

しかし2007年10月9日、同年6月に発生した時津風部屋力士暴行死事件を受け、日本相撲協会より解雇された部屋師匠で15代時津風こと山本順一の後継として部屋を継承するために急遽現役引退することとなり、日本相撲協会に引退届および年寄時津風襲名届を提出した。時津海自身は「まだ燃え尽きていない」と現役へのこだわりがあったが、今回の新弟子死亡事件からの出直しを図るため、14代時津風(豊山勝男=入門時の師匠)を始めとする関係者の説得を受け入れ、16代時津風となり、部屋の師匠として名門復活に全力を注ぐこととなった[4][1]

なお、時津海の引退と年寄襲名により、日本相撲協会は2007年11月場所番付において、引退した時津海が位置する予定であった西前頭11枚目を空位にするという措置を取った。これは時津海が年寄時津風として番付に掲載されることにより、番付上の重複を避けるためである。幕内の番付で空位が発生した事態は、1873年(明治6年)11月に当時の東京相撲の関脇だった小柳常吉ら以来(この時は力士名を墨で塗りつぶした)、実に134年ぶりという珍事となった。[注 3]詳細は「高砂浦五郎 (初代)」を参照

また時津海が時津風を襲名するにあたり、自身が取得していた年寄・錦島株を弟弟子の霜鳳に譲渡した。

先代こと山本が解雇されたちょうど1年後の2008年10月5日両国国技館において引退相撲を執り行い、断髪式で髷に別れを告げた(留め鋏は14代時津風が入れた)。式典後、時津海の16代時津風は昨年の不祥事を改めて謝罪した後、「新生時津風部屋を良い方向へ行くように頑張りたい」と抱負を語った。[5]

2016年3月30日時点で、協会の職務では審判部の所属であった。

2017年1月31日に間垣(元小結・時天空)が悪性リンパ腫により死去した際には「堪えますね」とぽつり。続けて「(昨年の)9月に復帰して指導者として稽古場に毎日来てました。若い衆にしつけとかあいさつとか厳しかった。あんなに厳しく指導するやついない。自分も見習わないといけない。若い衆をしっかり指導していきたい」と、沈痛な表情を浮かべながらコメントした[6]

2017年5月場所はヘルニアで場所を休場。3日目に足立区内の病院で内視鏡手術を行い、すぐに部屋に戻った[7]

2021年2月22日、後述の不祥事により、日本相撲協会より「退職勧告」の懲戒処分を受け、同日付で退職した。時津風部屋は部屋付き親方の間垣(元前頭・土佐豊祐哉)が名跡を時津風へ変更し、同部屋を継承した。

長男の博一(青森県立三本木農業高等学校卒)は、父親が師匠を務めていた縁で時津風部屋入門が決まりかけていた。しかし父親の退職を受けて入門するべき部屋を再考し[8]、次男の正真と共に立浪部屋に入門した[9]。同年5月場所前の新弟子検査に合格し、同月11日に初土俵を踏む[10]
退職後

処分の決まった2月22日に、犯罪ジャーナリストの小川泰平YouTubeチャンネル「小川泰平の事件考察室」にインタビュー動画がアップロードされた。動画の概要欄には録画は2021年1月末と明記されており、16代時津風は相撲協会に在籍している。インタビュー動画では16代時津風も小川もマスクはしておらず、両者を仕切るアクリル板もインタビュールームには無い状態であった。インタビューを行った小川は、マスコミの取材に対して「マージャン店と報じられた店は、雀荘として営業はされていませんし、雀荘の看板もありません」「そこの社長の父親が以前は別の場所で雀荘を経営していたが、昨年、その社長が亡くなり、雀荘は閉めた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef