時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月22日[1] - 1962年(昭和37年)1月21日[2])は、内務官僚、福岡市長、岡山市長、玉野市長。 岡山県邑久郡長浜村(現在の瀬戸内市)に時実惣次郎の長男として生まれた[3]。1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[1]。同年に高等文官試験に合格し、翌年に岩手県事務官に任じられた[1]。その後、徳島県事務官・警察部長、愛媛県警察部長、島根県警察部長、茨城県内務部長を歴任した[1]。1919年(大正8年)、朝鮮総督府忠清南道知事に転じ、朝鮮総督府監察官を経て、1923年(大正12年)に京畿道知事に任じられた。 1926年(大正15年)に福岡市長に選出され、5年間在任した。在任中の1927年(昭和2年)には東亜勧業博覧会が開催された[4]。退任後は『京城日報』『毎日申報』『ソウル・プレス』各社社長を務めた。 1938年(昭和13年)に岡山市長に選出され、2年間在任した。その後、1942年(昭和17年)には玉野市長に選出された[5]。 戦後は公職追放となり[6]、瀬戸内海観光株式会社取締役[7]、就実学園長を務めた他、1952年(昭和27年)から1956年(昭和31年)まで玉野市教育委員長を務めた[8]。
経歴
著書
『自治小言』(1919)
『京城後の二年』(1930)
『あけび』(1938)
脚注^ a b c d 『全国市長銘鑑』p.51
^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、333頁。
^ 『岡山県行幸記念誌』名鑑p.139
^ 『福岡市市制施行五十年史』
^ 『人事興信録』14版、ト27
^ 公職追放の該当事項は「翼賛支部長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、670頁。NDLJP:1276156
^ 『人事興信録』15版、ト8
^ ⇒平成24年度教育要覧 玉野の教育
参考文献
岡山県行幸記念誌刊行会編『岡山県行幸記念誌』岡山県行幸記念誌刊行会、1934年。
『自治制実施五十周年記念 全国市長銘鑑』帝国自治協会、1938年。
『福岡市市制施行五十年史』福岡市、1939年。
人事興信所編『人事興信録 第14版 下巻』人事興信所、1943年。
人事興信所編『人事興信録 第15版 下巻』人事興信所、1948年。
表
話
編
歴
岡山市長
1969年2月18日編入
西大寺市長
家野猛之1953.2.20-1957.2.19
伍賀厚1957.2.20-1967.2.17
官選
花房端連1889.9-1890.10
新庄厚信1890.10-1894.5
小田安正1894.7-1902.7
岡田磐1902.7-1918.8
中山寛1918.10-1922.10
窪谷逸次郎1923.5-1928.8
守屋松之助1929.2-1933.8
石原市三郎1934.2-1938.2
時実秋穂1938.3-1940.1
国富友次郎1940.9-1944.9
竹内寛1944.9-1945.10
橋本富三郎1945.11-1947.2