時報
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「時報」のその他の用法については「時報 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

時報(じほう)は、音、光、文字などの情報を定期的に発出することによって、公衆に時間を知らせる合図のこと。

時計が普及していなかった時代や地域において、生活の中の時間の意識づけに重要な意味を持っていた[1]

現代においては、時刻標準時)を知らせるための各種の情報およびその媒体を指す。公衆に正しい標準時を知らせ、各自の時計を正しい時間に調整させる役割を担う[1]
欧米における時報
近代以前

中世ヨーロッパ都市においては時計塔を設け、機械時計により時報として鐘を鳴らすことがあった。

19世紀には、グリニッジ天文台グリニッジ平均時に合わされたクロノメーター(時計)を持って、天文台職員が行き来することで時報が送られた。

このグリニッジ平均時の時報はロンドン市内にとどまらず、1847年から、まず鉄道で、ついで郵便局で、各地の地方時に代わって用いられるようになった。
近代以後
報時球詳細は「報時球」を参照グリニッジ天文台に設置された報時球はテムズ川河畔側から南方に見える。

本格的な時報はイギリスグリニッジ天文台1833年に初めて設置された報時球(タームボールまたはタイムボール、time ball)に始まる[1]。報時球は、報時檣の頂部に設置された、垂直なポールに貫通された球体である。グリニッジ天文台では午後1時にロンドンを出港する船舶向けに赤い木製の球体を落下させて時報とした[1]。これは鐘や太鼓よりも広範囲に時を知らせることができ、音よりも時間差が少ないという長所がある[1][注釈 1]

電信による時報が実用化された1852年には、グリニッジから制御される報時球がストランドに設置された。しかし技術的な問題から正確な時刻を知らせることができず、まもなく使われなくなった。グリニッジに制御される報時球が実用的になったのは、1856年からである。
報時砲「午砲」も参照

報時砲は、大砲空包の音による時報である。1862年にイギリスで時報用の合図に使用されるようになった[1]
電信

1852年には電信を使った時報が、グリニッジ天文台から鉄道会社に送られるようになった[1]。初めにサウスイースタン鉄道向けに実用化され、グリニッジ天文台からの時報が各に送られた。まもなく他の鉄道会社郵便局天文台、報時球・報時砲、時計メーカー・時計宝飾店などに送られるようになり、多くの時計が自動または手動で制御された。1862年には完成直後のビッグベンもグリニッジからの時報を受けるようになった。

時報は毎時0分に発せられたが、10時と13時が主である。グリニッジからは専用線が用意されたが、市外へは一般の通信線を使ったため、時報の前後2?3分間は通常の電信が停止された。

1915年ごろのアメリカでは、ウエスタンユニオン会社が民間企業に有線での時刻配信サービスを行っていた。サービスを受けていたウェスティングハウス電気製造会社に勤務する電気技師のフランク・コンラッドは、これに合わせていた腕時計と同僚の腕時計に時差があることをきっかけに無線技術の研究を開始し、無線技術者へと転身した。
電話

各国で電話を通じ、自動音声による時報サービスが行われている。電話番号は各国ごとに異なる(日本の例は後述)。

イギリスでは「123」番で時報が提供されており、「speaking clock」と呼ばれる。
無線

1912年10月28日、バージニア州にあるアメリカ海軍アーリントン無線局(呼出符号:NAA)が、海軍天文台の信号を使って無線で時報を定時発信するようになった。受信は自由であり、ウエスタンユニオン会社では受信した信号を有線で配信していた他、フランク・コンラッドも受信機を自ら組み立てている。
日本における時報「時刻#日本_2」も参照
寺鐘・太鼓

日本では671年天智天皇が「漏刻」と呼ばれる水時計を使用し、太鼓十二時辰に基づく正確な時刻を知らせたのが始まりとされる[1]。その後、時刻の公的管理は、律令制において中務省に属する陰陽寮が担った。

各地に仏教寺院が出現するようになると、定時に鐘が鳴らされるようになった[1]

やがて江戸時代の17世紀ごろには、各地(和歌山、松阪、小倉、高松など)に寺鐘制度が敷かれ、庶民に定着した[1]時の鐘)。江戸では石町時の鐘の音が鳴ると、それを聴いた周囲の寺社等が鐘を鳴らし(東は浅草、西は麹町、南は浜松町、北は文京区本郷まで聞こえたという)、それを聴いた周囲の寺社が更に鳴らす、という時報リレーシステムが構築されていた[2]。寺方だけでなく、民間でも町人が鐘を使用して知らせた例があった。

このほか、江戸時代の城下町においては、城において太鼓で時刻を知らせた。
日本の報時砲・報時球

日本では1873年以降、西洋式の時法が導入された。それに先立つ1871年、正午の時報に大砲が使用されるようになった[1]。12時(正午)に鳴らされる報時砲を午砲と呼ぶ。正午を「昼ドン」というのはここから来ている、という説もある[要出典]。

1902年(明治35年)には報時球(タームボール、タイムボール)による時報が主要港で行われるようになった[1]。日本の主要な港湾には、船舶のために報時檣(ほうじしょう)が設備され、これによって報時された。

日曜日・祭日を除く毎日11時55分に、報時球が報時檣の横桁に引き上げられ、12時(正午)に東京天文台から直通電流が断たれるとこれが落下する。この落下の瞬間が正午である。報時球の塗分けは上から順に赤色・白色・赤色で、報時檣の色は白色である[3]。誤った時刻に落下したときは万国船舶信号旗 W が掲げられ、13時に再び繰り返される。故障で報時信号を発せられなかった場合は同信号旗 D が掲げられる。

報時檣が設備されたのは横浜神戸門司大阪長崎であったが、長崎は独立観測によって報時された。
報時灯

日本の近代には、報時灯による時報も行われた。長崎港には報時檣の近くに報時灯の設備もあった。

20時55分になると三角形の緑灯3個に点じられ、約2分間明滅したのち不動点灯として、21時00分に消灯される。ただし、不動点灯中の予備信号として、20時58分および同59分に瞬時消灯される。

もし報時に誤りがあれば、21時00分10秒から30秒間明滅し、その旨知らせ、さらに21時30分に同様の信号をおこなう。故障によって報時することができない場合は点灯されない。
日本の電信時報

日本で電信による時報が始まったのは1888年(明治21年)である[1]

日本の郵便局では、日曜日、祭日を除く毎日11時57分になると、全国の一、二等局および特定三等局に通じる電信線は通信が中止され、東京市の中央電信局の自動報時機に接続され、各郵便局の電鈴が鳴り始め、12時(正午)に東京天文台で自動報時機に通じる電流が断たれると電鈴が鳴り終わる。この瞬間が正午であり、郵便局の電信係に行けばこの電鈴を聞くことができた。


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