時代はサーカスの象にのって
作者寺山修司
国 日本
言語日本語
ジャンル戯曲
初演情報
場所天井桟敷館 地下小劇場
初演公開日1969年3月15日
演出萩原朔美
主演新高恵子ほか
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
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『時代はサーカスの象にのって』(じだいはサーカスのぞうにのって)は、寺山修司の戯曲。1969年(昭和44年)3月15日、渋谷並木橋にオープンした天井桟敷館のこけら落としとして地下小劇場で上演され人気を博し、1年間のロングランとなった[1]。
ベトナム戦争の時代を背景に8つのオムニバス的なストーリーが展開され、アメリカへの憧憬と反発などが描かれる[2]。この作品は、当時ニューヨークのブロードウェイで上演され話題となっていたミュージカル『ヘアー』を参考にしており、寺山は1968年のアメリカ滞在時にトム・オホーガン
(Tom O'Horgan) の演出によるものを観ている[3][4]。1969年(昭和44年)3月15日、渋谷並木橋にオープンした天井桟敷館のこけら落としとして地下小劇場で上演された[1]。
ある演目ではアメリカンフットボールの球を用い、ボールをパスされた人は観客であっても1分以内になにかセリフをしゃべって次の人にパスしなくてはならないといった観客参加型の手法が取り入れられた[1]。舞台は連日満員で1年間のロングランが決定した[1]。 出演のカルメン・マキは「時には母のない子のように」がヒットし売れっ子となったことから、劇中の歌のシーンは代役がとられることがあった[5]。マキは1969年の第20回NHK紅白歌合戦に出演した[6]。 上演に先立つ1968年に、翌年4月に出版予定の『天井桟敷写真帖・時代はサーカスの象にのって』のための篠山紀信による写真撮影などが行われたが、実際に写真集が出版されたかは不明である[7]。 1969年に寺山は西ドイツのエッセン市立劇場に招かれ、ドイツ人俳優による『毛皮のマリー』『時代はサーカスの象にのって』の演出を担当している[8]。『毛皮のマリー』(美術:宇野亜喜良)は10月、『時代はサーカスの象にのって』(美術:及川正通)は12月に上演された[9]。 寺山は『ヘアー』日本版の脚色者として制作者から依頼を受け、仕上がった台本を制作者に渡すと1969年10月はじめに西ドイツに渡った[10]。翌月、日本に帰国すると、赤坂の国際アーチスト・センターで行われていた『ヘアー』の稽古に自分の台本ではなく別の直訳台本が使われていることを知る[10]。そして制作者側と話し合い正式に脚色者から降りることになった[10]。寺山の台本が使用停止された理由は原作者のジェームス・ラド (James Rado
初演にまつわる出来事
1969年12月12日の深夜、劇場に来た唐十郎の状況劇場の団員らとの乱闘騒ぎとなり、天井桟敷側2人、状況劇場側7人の計9人が現行犯逮捕されるという事件が起きている[12]。 1984年に寺山修司一周忌公演として、萩原朔美の演出による『時代はサーカスの象にのって’84』が渋谷パルコパートVで上演された[13]。音楽はムーンライダーズの鈴木慶一がプロデュース、舞台美術は日比野克彦が担当し、MIE、高見恭子、巻上公一、下馬二五七、蘭妖子 1999年7月、昭和精吾事務所により渋谷ジァン・ジァンにて公演、犬神サーカス団が出演した[14]。 2002年8月4日から11日にかけて、高取英の構成・演出で月蝕歌劇団による『時代はサーカスの象にのって2002』がザムザ阿佐谷にて上演された[15]。音楽はJ・A・シーザー、PANTAが担当した[15]。月蝕歌劇団からは一ノ瀬めぐみ、野口員代、森永理科、三坂知絵子、スギウラユカなどが出演、また制服向上委員会から橋本美香、秋山文香、吉田梢、星川りりか、松本久美子が出演した[16]。
その他の上演
1984年
1999年
2002年