是忠親王
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是忠親王
時代
平安時代前期
生誕天安元年(857年
薨去延喜22年11月22日922年12月13日
改名是忠王 → 源是忠 → 是忠親王
別名南院親王
官位一品式部卿
(臣籍時)従三位中納言
父母父:光孝天皇、母:班子女王
兄弟源元長源兼善、源名実、源篤行、源最善、源近善、源音恒、源是恒源旧鑑忠子内親王源貞恒、源成蔭、滋水清実、是忠親王、是貞親王源国紀宇多天皇、源香泉、源友貞、簡子内親王、綏子内親王、為子内親王繁子内親王穆子内親王、源和子、
子式順王、式瞻王、興我王、源和、忠望王、今扶王、英我王、源清平源正明源宗于、?子女王
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是忠親王(これただしんのう)は、光孝天皇の皇子。宇多天皇の同母兄。光孝源氏及び光孝平氏の祖。
経歴

当初二世王として是忠王を名乗っていたが、貞観12年(870年)2月、同母兄弟元長是貞及び異母兄弟とともに源朝臣姓を与えられて臣籍降下する。貞観17年(875年従五位下叙爵陽成朝初頭の貞観19年(877年)従五位上・侍従に叙任される。元慶7年(883年左衛門佐

元慶8年(884年)2月に父・時康親王が即位光孝天皇)すると、是忠は二世源氏から一世源氏に改められて左京一条に貫附された。この時、同母弟の定省王(のち宇多天皇)及び同母姉妹3名も臣籍降下している。同年5月に五階昇進して正四位下、6月には参議に叙任され公卿に列した。

仁和3年(887年)同母弟である宇多天皇の即位に伴って従三位に叙せられる。寛平3年(891年)に中納言に進むが、同年に宇多天皇の同母兄弟の皇族復帰が決定されて、親王宣下がなされ三品に叙された。延喜元年(901年)に没した本康親王の後任として式部卿に任ぜられ、のちに一品に至った。寛平5年(893年新羅の賊が肥前国松浦郡に来襲した際には、大宰帥として大宰大弐安倍興行と共に追討を命ぜられている。

延喜20年(920年)閏6月9日に出家して南院親王と号す。延喜22年(922年)11月22日薨去享年66。
人物

勅撰歌人として、『後撰和歌集』に1首が入集している[1]

あふことはかた糸ぞとは知りながら 玉の緒ばかりなにによりけん(『後撰和歌集』)[2]

官歴

注記のないものは『日本三代実録』による。

貞観12年(870年) 2月14日:臣籍降下源朝臣

貞観17年(875年) 正月7日:従五位下[3]

貞観19年(877年) 正月3日:従五位上。正月15日:侍従[3]

元慶7年(883年) 正月11日:左衛門佐[3]

元慶8年(884年) 4月13日:正四位下(越階)。6月1日:帯剣。6月2日:預時服月俸。6月9日:参議[3]

元慶9年(885年) 正月16日:兼近江守

仁和3年(887年) 5月:兼按察使[3]。11月17日:従三位[3]

寛平2年(890年) 9月20日:兼左衛門督[3]

寛平3年(891年) 3月19日:中納言、左衛門督如元[3]。7月23日:検非違使別当[3]。12月29日:為親王三品[4]

寛平5年(893年) 5月22日:見大宰帥[4]

時期不詳:式部卿

延喜4年(904年) 日付不詳:大学別当[5]

時期不詳:一品

延喜20年(920年) 閏6月9日:出家(一品式部卿、号南院親王)[4]

延喜22年(922年) 11月22日:薨去[4]

系譜

父:
光孝天皇

母:班子女王仲野親王の娘)

生母不詳の子女

男子:式順王

男子:式瞻王

男子:興我王

男子:源和

男子:忠望王

男子:今扶王

男子:英我王 - 子孫は大仏師職(七条仏所

次男:源清平(877-945)

男子:源正明(893-958)

男子:源宗于(?-940)

女子:?子女王


脚注[脚注の使い方]^ 『勅撰作者部類』
^ 『後撰和歌集』恋一 551
^ a b c d e f g h i 『公卿補任』
^ a b c d 『日本紀略』
^ 『西宮記』

参考文献

武田祐吉佐藤謙三 訳『読み下し 日本三代実録』上下、戎光祥出版、2009年。


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