昭襄王
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昭襄王 ?稷

第3代王

王朝
在位期間前306年 - 前251年
都城咸陽
姓・諱?稷(えいしょく)
生年恵文君13年(前325年
没年昭襄王56年(前251年)閏9月[1]
恵文王(庶子)
宣太后
后妃葉陽后(正室)
唐八子(妾)
陵墓?陽

昭襄王(しょうじょうおう)は、中国戦国時代の第28代君主。第3代の。昭王、秦昭王とも呼ばれる。

は?(えい)、は稷(しょく)。悼太子孝文王(柱、安国君)の父。始皇帝(政)の曾祖父。
生涯
即位

武王4年(紀元前307年)、異母兄の武王孟説という大力の持ち主との挙げ比べを行って、脛骨を折って死んだ。武王に子がいないまま急逝したために後継者争いが起こった。

公子稷は当時にいたが、武霊王の計らいで、代国の宰相の趙固(中国語版)によって燕から趙に迎え入れ秦に送り届けられた。秦では群臣のほとんどが反対するなか、魏?らの支援により、異母兄である武王の後を継いで王として即位した。

即位した公子稷は死後、昭襄王と呼ばれるので、この項でも以後は昭襄王で通す。
武王の遺臣

在位当初は武王の遺臣樗里疾甘茂向寿・公孫?(中国語版)などが政務を取った。

昭襄王元年(紀元前306年)、を討ち、韓の雍の地を包囲した。そのため、韓は公仲(中国語版)という者を遣わして重臣の甘茂に取り入って秦に援助を求めてきた。

甘茂は昭襄王に、「韓は秦が味方しないと知ると、国を挙げて楚と同盟するかもしれません。そうなれば(秦と交戦状態にあった)も必ず順応します。そうしますと3つの国が同盟することになってしまいます。秦としては、3つの国がこのまま同盟を結び、秦を討つようになることを待つよりは、こちらから(楚を)討ったほうが有利です」と言った。

続いて韓は張翠(中国語版)という者を秦に遣わした。張翠は「私は病気です」と言いながら、日ごとに一邑ずつ秦に向かって進み、ついに昭襄王と甘茂と会見した。

甘茂は「あなたが病をおして来ているところを見ると、韓はさぞかし急迫しているのでしょう」と言った。しかし張翠は「まだ急迫していません」と答えた。甘茂は「本当にそうでしょうか」と聞いた。張翠は「本当に急迫しましたら、韓はすぐに腰を折って楚に参入します。どうして私がここへ来るでしょうか」と答えた。

この答えに甘茂と昭襄王は「なるほど。その通りである」と言い、さっそく兵を出して韓を救った。
甘茂の出奔

即位元年、昭襄王は甘茂の申し出を受け武遂の地を韓に返還した。向寿と公孫?はこれに反対したが昭襄王は聞き入れず、2人は甘茂を恨んで讒言するようになった。甘茂はこの状況を恐れ、魏を討つのをやめてに亡命してしまった。

甘茂は斉に出奔する際に、函谷関蘇代に会い、秦に復帰できるように頼んだ。

蘇代は秦に行き、「甘茂は非凡の士です。長く秦に仕えていたので秦の険阻平坦をみな知っています。もし彼が斉を動かし、韓・魏と同盟して秦に謀るようになれば、秦のためにはなりません」と言った。昭襄王は即刻、甘茂に上卿の位を与え、宰相の印をもって斉から迎えようとしたが、甘茂は来なかった。

蘇代は斉の?王に、「甘茂は賢人です。秦が上卿の位を与えて宰相に任じようというのに、甘茂は王の臣となることを喜んだため、秦の申し出を辞退しました。王は何をもって礼遇なさいますか」と言った。そこで?王は甘茂に上卿の位を与えて、斉に留めおいた。

甘茂は最後まで秦には帰らず魏で没した。
楚凋落

昭襄王は年少で即位したため、母である宣太后が摂政し、宣太后の弟であった魏?と華陽君(?戎)の2人が実権を握るようになった[2]

昭襄王2年(紀元前305年)、先の後継者争いに敗れた庶長公子壮は兄弟の公子雍ら反昭襄王勢力を結集し、昭襄王と魏?に対して反乱を起こすが、鎮圧される事件が起こった(庶長壮の反乱、季君の乱とも言う)。

この乱はすぐに鎮圧され、昭襄王の兄弟で従わない者は全て滅ぼされ、先王の武王の母である恵文后も処刑され、武王の正室の武王后は故国の魏に追放された[3][4][5]。この乱をきっかけに魏?の権力はますます強まっていった。

昭襄王3年(紀元前304年)、冠礼(成人の礼)を行った。同年、秦の影響を恐れた楚の懐王は秦に盟約を求めてきた。昭襄王は黄棘の地で盟約し、その際に楚に上庸の地を与えた。

昭襄王4年(紀元前303年)、昭襄王は魏を討ち、魏の蒲阪・晋陽・封陵の地を取った。しかし翌昭襄王5年(紀元前302年)に魏の襄王が秦に来朝したため、蒲阪の地を還した。

昭襄王6年(紀元前301年)、侯であった公子ツ(中国語版)(恵文王の子)が背いた。公子ツが秦に進献したものに、公子ツの夫人が毒を入れたため、秦と険悪になったためだった。昭襄王は将軍司馬錯に命じて蜀を平定させた。一方、楚との仲が険悪になり、庶長の(姓は不明)に命じて楚を討った。翌年にも再び楚を討ち楚の新城の地を取り、昭襄王8年(紀元前299年)には華陽君?戎(宣太后・魏?の弟)に命じて楚を討ち、新市の地を取った。

昭襄王7年(紀元前300年)に公子ツの子の公孫綰(中国語版)を蜀に封じて蜀侯とし、蜀の地を安定させた。その後、昭襄王9年(紀元前298年)に公子ツの無実が証明された。昭襄王は大きく後悔し、使者を派遣して改めて埋葬した。

昭襄王10年(紀元前297年)、楚の懐王が秦に入朝したが、昭襄王は懐王を信じず、秦に拘留した。

昭襄王11年(紀元前296年)に懐王は趙に逃げたが、趙が受け入れなかったため再び捕らえられ最後は秦で死んだ。

このように超大国であった楚の力は凋落し、力の差は決定的となった。
宰相孟嘗君

昭襄王6年(紀元前301年)、昭襄王はその賢を聞いて、弟の公子?(陽君(中国語版))を斉に人質として出し、孟嘗君に会見を求めた。 孟嘗君はこれに応じて秦に行こうとしたが、蘇代が諌めたのでとりやめた。しかし昭襄王9年(紀元前298年)、斉の?王は孟嘗君を秦に入国させた。

昭襄王は念願かなって孟嘗君と会い、その賢を絶賛して宰相として礼遇した。しかし、ある人が「孟嘗君が当代一流の人材であることは認めますが、斉の人でありますから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いありません。さりとて帰せば斉の利の為に働き、ひいては秦の脅威となるでしょう」と進言し、昭襄王はこれを信じ、謀殺しようとした。

昭襄王10年(紀元前297年)、孟嘗君は食客の力を借りて斉に逃亡した(鶏鳴狗盗)。

昭襄王11年(紀元前296年)、斉の宰相となっていた孟嘗君は、斉・韓・魏を主力とし、趙(に併合されていた中山)・の軍と合わせて秦に攻め込んで来た。秦は函谷関で敗れた(塩氏の戦いまたは五国攻秦の戦とも)。

昭襄王は敗戦後の処理を、孟嘗君に代わり宰相となっていた楼緩に、「河東の地を割いて三国(斉・韓・魏)と講和したいと思うが、どうだろう」と尋ねた。楼緩は「このような国の大事を決めるのは重臣方の任務です。どうして公子池さまを召されないのですか」と答え、罪に陥れられることを避けた。

昭襄王は公子池を召して改めて尋ねた。公子池は「講和されてもされなくても後悔されましょう」と言った。昭襄王が「どうしてか」と問うと、公子池は、「河東の地を割いて三国の兵が引き揚げれば、きっと『惜しいことをした。三国が引き揚げようとしたところへ、河東をくれてやるとは』とおっしゃるでしょう。その反対に、講和されなければ咸陽は危うくなり、きっと『惜しいことをした。たった河東の地三県を惜しんだばかりに大敗した』とおっしゃるでしょう」と答えた。

昭襄王は公子池の進言を容れ、河北および封陵の地を与えて和睦した。
宰相魏?

宰相として重用されていた楼緩は、先の趙王の武霊王の命で秦に来ていた。趙は楼緩が秦で宰相をしていることを自国の不利と考え、仇液(中国語版)という者を秦に遣わせて、魏?を宰相とするように請うた。それに従って昭襄王12年(紀元前295年)に楼緩を免じて魏?を宰相とした。

昭襄王13年(紀元前294年)、旧知の間柄である向寿に命じて韓を討ち、武始の地を取った。向寿は、幼いときから昭襄王と一緒に成長したので、重用されていた。また、任鄙を蜀の漢中の郡守とし後顧の憂いを絶った。
白起登用

宰相の魏?は白起を将軍として推挙した。昭襄王は従わざるを得ず、白起を左庶長に任じた。この白起の登用により、秦の勢力は大きく飛躍することになった。

昭襄王14年(紀元前293年)、白起を左吏に昇格させ、韓・魏を討たせた。伊闕の地で首を斬ること24万を数え、5城を抜くことに成功した(伊闕の戦い)。秦が魏を伊闕で破ると聞くと、東周は秦に攻められることを恐れて、使者を派遣して和議を講じるようになった。また、国尉(軍司令官)に昇格させ、引き続き魏を討たせた。黄河を渡って魏の安邑以東、乾河にいたる地を取った。翌年に白起を大良造に昇格させ、再度魏を討たせた。垣の地を取り、大小61もの城を落とし、魏の国力を大きく傾かせることに成功した。
西帝自称

昭襄王15年(紀元前292年)、魏?が病のために請うて宰相を辞めた。そこで客卿の燭寿を宰相とした。


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