昭和金融恐慌
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この項目では、1927年(昭和2年)の恐慌について説明しています。1930年(昭和5年)の恐慌については「昭和恐慌」をご覧ください。
1927年(昭和2年)3月23日
当時の取り付け騒ぎ

昭和金融恐慌(しょうわきんゆうきょうこう)は、日本1927年昭和2年)3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)ともいう。

「金融恐慌」は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本では特に断らない場合はこの1927年(昭和2年)の恐慌を指すことも多い。

1930年昭和5年)からの昭和恐慌(しょうわきょうこう)とは異なる。「金融危機#関連項目」および「1837年恐慌#関連項目」も参照
概要

日本経済第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して1920年に戦後不況に陥って企業銀行不良債権を抱えた。また、1923年に発生した関東大震災による経済混乱に対応するための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相(第1次若槻内閣)が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言[1]したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相(田中義一内閣)は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。
背景

昭和金融恐慌の原因としては、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処し得なかった未熟な政策が挙げられる。
遠因

金融システムの整備が完全ではなかったことから発生した不良債権の処理が適切になされず、金融不安を起こすに至った。大正期からこれらシステムの不備は認識されていたが、充分な手当てがなされる前に恐慌が発生した。
銀行

明治維新期に西洋の経済をモデルとして多くの銀行が設立されたが、その中には、俸禄改革における金融公債(秩禄公債金禄公債)を資本金として設立されたものが多くあった。設立の意図が資金需要に応える経済的理由によらず公債の資金化を動機とした、いわばなりゆきであったために金融の事情に不案内な者[注 1]が銀行経営に当たることも多かったと指摘されている。また、資本金が実際に払い込まれていないものも多かったという。

日露戦争後には経済が発達し、これに応じるために銀行の設立が推奨された。1890年(明治23年)に改正された銀行条例では、銀行業は一般の私企業とみなされ資本金額の制限が撤廃され、規制や制限もゆるいものであった。この時期、資産家が銀行を設立することや、資金に余裕のある私企業が銀行業を兼業することも行われた。また、特定の企業への融資額を制限する規制条項も撤廃され、融資先が偏る情況を許した[注 2]

特定企業と結びつきの強い銀行を指して俗に機関銀行という。資産家が豊富な資金を元手に設立したり、私企業の兼業で設立した銀行で、集めた預金を特定企業の業務遂行に充てる。資金を特定の企業に集中して融資することから、その企業の業績が悪化した場合には直接銀行経営が悪影響をこうむる。また、貸出先企業の不透明な経理の影響を蒙って経営が悪化することもしばしばあった。

また、欧州の銀行が両替商に始まり産業の発展に伴う金融機能の要求に応えて銀行業が発達していったのに対し、日本では海外の金融システムをモデルとして先に多くの銀行が設立されたところから、当初は金融の需要が少なく銀行自身が事業を興して需要を作り出す傾向にあった。これも特定の企業へ貸し出しが偏る要因となった。二十七銀行
東京渡辺銀行
第二十七国立銀行として設立され、二十七銀行を経て1920年東京渡辺銀行と改称した。なお、横浜にも渡辺銀行があったことから、「東京渡辺」銀行と称して区別した。経営者一族の関連企業に多額の貸付を行い機関銀行としての性格が強かったが、これらの融資が戦後不況で焦げ付き関東大震災後に経営が悪化した。そして前述の蔵相の失言で休業した。
台湾銀行
1895年台湾統治後に日本政府の国策で設立され、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。台湾における産業の育成に資するところから始まったが、樟脳の取引を介して鈴木商店と関係を深めた。この頃情勢が悪化した中国大陸への融資を縮小し新たな融資先を開拓していたところでもあり、鈴木商店への融資を足がかりとして内地(日本本土)にも経営を広げた。同時に融資額が膨らみ、機関銀行としての性格も強めた。しかし、戦後不況で鈴木商店の経営が悪化すると多額の融資が焦げ付き、追い貸しを行うようになった。その後、金子直吉を鈴木商店の経営から排除し、融資を縮小するべく画策したが失敗に終わっている。なお、台湾銀行はしばしば経営危機に瀕し都度日銀の特融や大蔵省預金部からの融資を仰いでいた。1920年代に入ると借入金への依存度が増し、特融・預金部の融資に加え、コール市場の融通金にも大きく依拠するようになっていた[2]
産業構造

殖産興業策の下に産業振興が大いに勧められたが、大正期に至っても日本経済はその多くを生糸などの軽工業に負った。製鉄や造船などの重工業も勃興しつつあり、第一次世界大戦中には英国をはじめ欧州先進国の産業が衰えたのを代替するまでに至ったが製品の質では未だに一歩譲り、欧州諸国が戦後に産業を回復するとアジアに獲得した市場を奪回された。これは戦後の大反動(1920年)の一因となる。

1874年に開業した鈴木商店1899年に台湾の樟脳の販売権を獲得し、この際に後藤新平と関係を深め政界にも接近した。第一次世界大戦期には海外電報を駆使して収集した情報から戦争の長期化を予測し、これに備えて企業買収や投機を行い多大な利益を上げた。鈴木商店関連の金融機関として第六十五銀行があったが成長する鈴木商店を支えるだけの規模はなく、拡大する資金需要は台湾銀行からの短期的な融資を中心として賄った。株式による資金獲得では株主の意向を排除できないことを嫌った金子直吉の方針と言われるが、これが経営危機において即座に資金難に陥った一因であるといわれる。

また金子直吉の性分として、経営拡大には手腕を発揮したが不採算な事業を畳むことはできなかったといわれる。一方で、経営拡大は日本の産業発展を願う金子の意図に出たものとも言われる。
近因

大正期に入ってから続く不況に喘ぐ日本は第一次世界大戦が始まると一転して船舶需要をはじめとする戦争特需に湧き、念願だった八八艦隊の整備にも乗り出して造船業界は活況を呈した。だが1920年になると戦後不況が襲い、活況を呈していた造船業界も軍縮の煽りをうけて受注を減らし日本経済全般が苦境に陥った。1923年に関東大震災が発生し、経済的混乱を防ぐべく震災手形の救済策がとられたが、ここに戦後不況で生じた不良債権が大量に紛れ込み、その根本的解消が行われず金融不安をあおっていた。

交易の面では大戦中の1917年に金本位制を一旦停止し、大戦後に復帰の機会を窺がったが、戦後不況と関東大震災からくる日本経済の混乱の中で金解禁は先延ばしとなり、金の裏づけのない円が投機対象とされたことから、円為替は乱高下した。経済的にも交易の面からも円の安定が求められ、早急な金解禁を目指したが、それに先立って日本経済に燻る震災手形をはじめとする不良債権を根本的に解消することが急務となった。


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