この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年2月)
昭和維新(しょうわいしん)とは、1930年代(昭和戦前期)の日本で起こった革新派・国家革新の標語。 1920年代から1930年代前半にかけては、昭和金融恐慌や世界恐慌による経済の悪化、排日移民法や張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安定化などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を過っている(と彼らには見えた)元老・重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事件としては五・一五事件、二・二六事件が挙げられる。 『昭和維新実現』を唱えて数々の事件が起こされたが、そのどれもが『昭和維新実現』のための『討伐』であったり『天誅』であったりで、「彼を暗殺してからどうするのか、その後誰が何をするのか」という部分においては甚だ具体性に欠けていたのが特徴である(「天皇親政」を唱えたことで、「今の指導者を排除した後どうするか」について論じることは天皇の統治大権を犯す「大権私議」にあたるということにもなった。たとえば「昭和維新実現の為荒木貞夫を首相に」と考えていても、「天皇に強要して荒木に大命降下させる」ことはそれ自体が謀反になってしまう、という論理)。日本の政治システムを4日間に渡り空白に陥れた二・二六事件でさえ、実行者達は、皇居を占領し天皇に親政を迫った後の計画を持っていなかった(そもそも、皇居そのものを占領するところまでは実行されなかった。新国家の指導者として、事件の黒幕の1人とされる真崎甚三郎に期待していた者もいたが、彼が動かなかったことで梯子を外された格好となった)。 片山杜秀は、昭和維新的な思想を持ちながらついに直接行動に出ることはなかった安岡正篤について「安岡の『錦旗革命論』はその論理においてなかなかに過激だし、彼は最後まで『錦旗革命論』を裏切ってはいない。しかしその革命論は、現実に対して厳格に適用されれば、日本では天皇ただ一人を除いて革命を起こせなくなるという結論に帰結し、それ以外の下々の者が勝手に革命を起こそうとするなどあってはならないということになる」と述べている[1]。 戦後においては「右からの変革」を主張する民族派の右翼の基本路線でありスローガンとなった。 昭和維新の思想としては、例えば二・二六事件における精神的指導者である北一輝の著した『日本改造法案大綱』には、男女平等・男女政治参画・華族制度廃止(当然、貴族院も廃止)・所得累進課税の強調あるいは私有財産制限・大資本国有化(財閥解体)・皇室財産削減などの、当時としては進歩的な政策が並ぶ(なお、この多くはGHQ、またはその意向を先取りした日本政府によって第二次世界大戦後に実行に移される)。また、この事件の主犯である磯部浅一によれば、日本の国体を「天皇の独裁国家ではなく天皇を中心とした近代的民主国家」と定義した上で「現在は天皇の取り巻きによる独裁状態にある」とする。日露戦争や大逆事件(治安維持法が制定されるきっかけとなった)以前の日本を社会の閉塞感・国家と国民との隔たりを感じさせない理想国家として捉えている。
概要
思想性・国家像