この項目では、過去に存在した日本の政党について説明しています。
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昭和会(しょうわかい)は、昭和初期に存在した親軍派政党(1935年12月23日 - 1937年5月24日)。 立憲政友会は鈴木喜三郎総裁のもと、岡田内閣に対して野党路線を貫き、入閣した床次竹二郎・山崎達之輔・内田信也を除名処分[1]とし、続いて内閣審議会委員となった水野錬太郎・望月圭介も除名した。これに除名議員及びその直系議員は反発し、床次を盟主に「第二の政友本党」結成に動くが、1935年(昭和10年)9月8日に床次が急死したため、挫折した。そこで被除名者とこれに抗議して離党した代議士18名で結成されたのが昭和会である。 同年12月23日、第68回帝国議会の招集を控えた前日、内田信也と望月圭介が電話で協議を行い団体名を「昭和会」とすることに決定。同日中に衆議院事務局に届け出を行った。参加者は、内田、望月の両名のほか山崎達之輔、井阪豊光、石井三郎、飯村五郎、春名成章、豊田収、兼田秀雄、滝正雄、窪井義道、青木精一、樋口典常、森肇、守屋栄夫、蔵園三四郎、岸田正記、渡辺伍[2]。 参加者には実力者が多く、亡くなった床次に代わる党首を決定することは困難であったために党首は置かれなかった。 同党設置後、政友会からの離党者が続出して最大25名までに増え、岡田・広田・林と3代の内閣において与党の位置を占めた。1936年(昭和11年)に行われた第19回衆議院議員総選挙では47人の公認候補者を立候補させたが、準備不足などがたたり当選者は20人にとどまった[3]。さらに翌1937年(昭和12年)、食い逃げ解散を受けて行われた第20回衆議院議員総選挙では議席を19に減少させ、政友会・立憲民政党の圧迫を受けて自主解散した。 その後旧昭和会代議士は、民政党を追われた安達謙蔵の国民同盟に所属する議員らとともに「第一議員倶楽部」と呼ばれる統一会派を結成するが、1939年に鈴木総裁の後継をめぐる政友会の分裂騒動が発生すると、これに乗じて昭和会代議士のうち政友会出身者は中島知久平を総裁に仰ぐ政友会中島派(革新派)に合流・復党した。ただ、永山忠則ら昭和会結成後に初当選した議員は政友会中島派(革新派)に合流せず第一議員倶楽部に残留した(永山は1936年に昭和会公認で総選挙に初当選しているが、中央政界入り以前の敷信村長時代・広島県議時代を通じて政友会に所属したことはない)。また、政友会出身者でも守屋栄夫のように政友会革新派に合流しなかった者もいる。
概要
脚注^ 高橋是清も入閣したが、総裁経験者を除名したことによる党内の混乱を恐れた鈴木は「別離」(訣別)を宣言して除名の代わりとした。
^ 内田鉄相、望月逓相ら政友会脱退組が組織『中外商業新報』昭和10年12月24日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p288 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 総選挙は立ち遅れで伸びず『東京日日新聞』昭和11年2月23日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p288-229)
表
話
編
自由党系
愛国公党
自由党
自由党(立憲自由党)
憲政党
立憲政友会(昭和会)
政友本党
東洋自由党
革新倶楽部(新正倶楽部)
革新党
改進党系
立憲改進党
進歩党
憲政本党
立憲国民党(革新倶楽部)
立憲同志会(中央倶楽部)
憲政会
立憲民政党(国民同盟)
その他
立憲帝政党
立憲革新党
実業同志会
大同倶楽部
又新会
革新党派
(無産政党)
労働農民党
東洋社会党 → 社会民主党 → 日本社会党 →(農民労働党)労働農民党 → 日本農民党/社会民衆党/日本労農党/新労農党/無産大衆党 → 日本大衆党 → 全国大衆党 → 全国労農大衆党 → 社会大衆党/日本無産党
その他
自由党左派
車会党
日本共産党(第一次/第二次)
国粋主義政党
国民協会 (日本 1892-1899)
国民協会 (日本 1933-1937)
東方会
立憲養正會
翼賛政治会
大政翼賛会
Category:戦前日本の政党