六代目 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}春風亭(しゅんぷうてい) 柳橋(りゅうきょう)
1951年
本名渡辺(わたなべ) 金太郎(きんたろう)
生年月日1899年10月15日
没年月日 (1979-05-16) 1979年5月16日(79歳没)
出身地 日本・東京都文京区
師匠四代目春風亭柳枝
名跡1. 春風亭柳童
六代目 春風亭 柳橋(しゅんぷうてい りゅうきょう、1899年(明治32年)10月15日 - 1979年(昭和54年)5月16日)は、東京都文京区出身の落語家。本名?渡辺 金太郎。出囃子は『大阪せり』。日本芸術協会を創設し、44年もの間、会長として君臨した。 母や兄の影響で幼少より芸事に興味を持ち、中村流日本舞踊を習い始めた。近所に上野鈴本亭の出店が開場すると家族で寄席通いを始めて落語家に憧れを抱き、上野鈴本亭の席亭[注釈 4]の紹介で四代目春風亭柳枝に前座抜きの二ツ目待遇で入門し、「春風亭柳童」の芸名をもらった。落語と踊りを器用にこなし、ほぼ同時期に子供のプロ落語家としてデビューした六代目三遊亭圓生[注釈 5]と同様に、寄席のマスコット的な人気者であった[3]。 「五代目春風亭枝雀」となった柳橋は芸力に恵まれ若手落語家として将来を嘱望されていた。睦会には真打が足りなかったこともあり、若手落語家4人を次々と真打として大々的に売り出し、話題作りとした。それが「七代目春風亭柏枝」を襲名した柳橋のほか若き日の八代目桂文楽・二代目桂小文治・三代目春風亭柳好であり、後に「睦の四天王」と呼ばれたが、柳橋は四人の中で一人飛びぬけた存在であった。当時大阪で『子別れ』を演じたとき、余りの出来の良さに大阪の客から「江戸っ子の腕で打ったる鎹は浪花の空に柏枝喝采」の狂歌を贈られた[4]。『湯屋番』で若旦那が妄想のあまり番台から落ちる場面で座布団から転がり落ちるなどの明るく派手な演出を試み[5]、4代目春風亭小柳枝を経て六代目春風亭柳橋襲名後はさらに伸びを見せ、所属していた落語睦会を脱退して当時柳家金語楼とともに日本芸術協会を結成して会長に就任した。新作派の金語楼に影響を受けて古典を時代に合わせて改作した『支那そば屋』『掛取り早慶戦』などを手がけ、伝統芸をベースに斬新な落語を創造するなど旺盛な活躍を見せ、順調極まる落語家としての成育歴が芸風に生かされて人気・実力共に若手落語家のトップランナーと評価された[6]。圓生は、当時柳橋がどこまで上手くなるのか空恐ろしくなり、本気で弟子になろうかと思ったと述懐している。若手から中年期まで芸の伸び・売出しの勢い・出世のペース等は常に柳橋が圓生を圧倒し、圓生自身は柳橋の様には生涯なれないと思っていた[7]。 吉田茂などを贔屓客とし、柳橋はよく大磯御殿に呼ばれて一席演じた。NHKラジオの人気番組「とんち教室」[1]の共演者石黒敬七からステッキをかり、金縁眼鏡と葉巻という吉田首相の扮装で出た事もある。また秩父宮も彼の贔屓の一人であったが、宮の葬儀に参列した柳橋は家人から「殿下の棺に師匠のレコードをお入れしました。
芸歴
1909年(明治42年)あるいは1910年(明治43年) 9歳で子供落語家として初舞台。師匠は4代目春風亭柳枝。初名「春風亭柳童」。
1915年(大正4年) 5代目「春風亭枝雀」と改名し二つ目。
1917年(大正6年)8月 師匠4代目柳枝が結成した睦会に加入。当月の下席に真打昇進。昇進に伴って7代目「春風亭柏枝」を襲名した。
1921年(大正10年)3月 睦会「三柳の改名」 師弟トリプル襲名。4代目「春風亭小柳枝」を襲名。[注釈 1]
1926年(大正15年)2月 6代目「春風亭柳橋」を襲名[注釈 2]。
1930年(昭和5年) 柳家金語楼とともに日本芸術協会を結成し、以降44年間会長職を務める。
1949年(昭和24年) NHKラジオ「とんち教室」[1]のレギュラー出演開始。
1954年(昭和29年)2月 洋行[注釈 3]。
1974年(昭和49年)3月1日 会長職を副会長・5代目古今亭今輔に譲り、相談役就任。
1979年(昭和54年)5月16日[2]逝去。
1949年
来歴・人物
子供噺家
若手落語家のトップ・日本芸術協会を結成
戦後1954年