春日若宮おん祭(かすがわかみやおんまつり)は、奈良県奈良市の春日大社の摂社若宮神社の祭祀として、奈良公園周辺で毎年12月17日を中心に数日に渡って行われる祭礼である[1]。大和一国を挙げて盛大に執り行われ、1136年に関白藤原忠通によって始められたと伝来されている。870有余年にわたり何回もの延期や中止を経て再開され開催されている[2]。おん祭で奉納される猿楽(能)や雅楽、神楽や舞楽などの芸能は中世以前の芸能の継承・保存に大きな役割を果たしている。これらの奉納芸能は「春日若宮おん祭の神事芸能」として1979年(昭和54年)に国の重要無形民俗文化財に指定されている[3]。
概要三条通りを上るお渡り式(時代衣装に扮する奈良市長)
若宮を迎える「遷幸の儀」から若宮を還す「還幸の儀」までの祭祀は24時間で執り行われる。12月17日午前零時に始まり、12月18日の午前零時になる前に帰る。この間「遷幸の儀」「還幸の儀」ともに一切の照明および写真・動画の撮影は禁止されている。
由緒春日若宮社
春日若宮神は、1003年(長保五年)3月3日に出現(祐房注進文)し、1135年(保延元年)2月27日若宮を始めて別社に鎮座(大日本史料4?16?400建久3年祐明記・文永祐賢記)。2月未明若宮神楽所・手水舎造立(濫觴記)。11月11日藤原頼長参拝、若宮に平胡?・蒔絵弓矢などを奉納(中右記・台記・中臣祐房春日御社縁起注進)。関白藤原忠通によって若宮の社殿が改築され、1136年(保延二年)3月4日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記文永10・2・26条)。9月17日始めて若宮祭を行ない、以降永式とする(中右記・一代要記)。1135年(保延元年)に若宮社が創建され、当初は中臣祐房が若宮神主職を兼任したが、1156年(保元元年)から、その三男の祐重が専任の若宮神主に任命された。なお、若宮神主は神主や正預と違い、若宮一社限りの惣官職で、権官は置かれなかったので、若宮神主家のみは、世襲制であった。 興福寺の僧集団が、保延2(1136)年9月17日に、朝廷による大和国の国司支配の復活を意図して関白・藤原忠通が大和国検地を実施しようとして、これを阻止して興福寺の大和国支配の継続を朝廷に訴訟して、その勝訴を願い、おん祭りは始められた(『大乗院日記目録』)[4]。 お渡り第8番の 流鏑馬は、開始から行われているが、武士との関係で重要である。初期には、大和国内の興福寺荘園の武士だけでなく山城国や摂津国荘園の大和国外の武士も参加していた。しかし13世紀後半に興福寺が大和士(やまとざむらい)を編成・組織する体制が徐々に整い、他国の武士は参加できず代わりに物納で流鏑馬米を負担する形になる[5]。流鏑馬の務めを命じられた家は願主人(がんしゅにん)として祭礼への様々な準備をした[6]。 お渡り第11番 大和士は、鎌倉時代13世紀後半に興福寺領荘園内の荘官を衆徒とし、春日社領荘園内の荘官を国民としてそれぞれ荘園の管理をさせた。大和国の興福寺支配が確立していくと、荘園だけでなくおん祭りも大和四家中の国人などが「願主人」として助力した[7]。室町時代になると、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏
歴史
その後は、豊臣秀長が祭りを取り仕切る施主として願主人を丸抱えし祭礼を事実上先導する形になる。秀長は影向松(ようごうのまつ)付近の松の下に仮屋を建てお渡りを見分し、従者を行列に加え馬乗100騎や多数の槍持ちを華美にさせた。増田長盛が跡を継いだ。江戸時代にも武家権力側の主導は続き、奈良奉行所が差配して、槍持ちや馬の費用を畿内大名や幕僚に振り分け、奉行所も大宿所費用として200両負担した。松の下には奈良奉行が座り見分した[9]。
近代
明治時代になり、主催者の興福寺が廃寺扱いとなり、奈良奉行所も消滅し、おん祭りは以後は春日大社の主催となる。明治4年には費用問題で一時的に大幅に縮小された。明治6年から民間からの大幅な寄付を集めることが許可され、信者組織の講社制度も改訂され助力し、明治17年に春日保存会が結成され、おん祭りの運営に大きな役割を果たす[10]。明治33年からは奈良市の市祭となり市の援助を受ける。