春日 弘(かすが ひろむ 1885年(明治18年)8月8日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、長野県下高井郡穂波村佐野(現・山ノ内町)出身の日本の実業家。
住友本社理事、取締役。住友金属工業初代社長。ダイキン工業初代会長。JOC日本オリンピック委員会委員。1964年東京オリンピック大会組織委員会委員及び同財務委員。日本陸上競技連盟2代目会長。ヘルシンキオリンピック大日本選手団総監督。ローマオリンピック日本選手団長。大阪府公安委員長。正四位勲二等瑞宝章。国際陸連IAAF功労賞。 この節の出典[1]
経歴
穂波小学校から旧制長野中学(長野県長野高等学校)に進学して卒業。旧制第一高等学校英法科を卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し卒業。住友財閥の財閥グループ全てに対し統括指揮を行うホールディング会社である住友総本店に入社。住友財閥の基幹事業たる銅を主に扱い、昭和15年(1940年)1月 住友財閥の財閥グループ全てに対し統括指揮を行う住友本社参与に就任。同年4月、住友本社理事及び取締役に就任した。昭和16年(1941年)、住友金属工業の初代社長に就任。住友財閥では旧来、社長制度は住友本社以外に社長職は一切設けず、社長といえば住友吉左衛門の事であり、異例中の異例の就任人事であった。当時、住友財閥四天王の一人とされる。
東京帝国大学の陸上部仲間と日本陸上競技連盟を立ち上げ、大正12年(1923年)第6回極東選手権競技大会(大阪開催)の総務委員長に就任。皇族がスポーツの役員に就かれる事は、当時としては前例が全く無く空前の事で思いもよらない事だったが、春日弘(総務委員長)の熱意と、秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮)のご理解により初めて宮内省を説得し、秩父宮雍仁親王を第6回極東選手権競技大会総裁に仰いだ[1]。大正14年(1925年) 日本陸上競技連盟常務理事に、昭和4年(1929年) 日本陸上競技連盟副会長に就任し、昭和34年(1959年) 東大時代から日本陸上競技連盟を創設したメンバーの平沼亮三が没し、日本陸上競技連盟2代目の会長に就任。オリンピック関係では、昭和27年(1952年) 第十五回ヘルシンキオリンピック大日本選手団総監督に就任、昭和28年(1953年) JOC日本オリンピック委員会委員に就任、昭和35年(1960年) 第十七回ローマオリンピック日本選手団長に就任、昭和36年(1961年) 1964年開催の1964年東京オリンピック大会組織委員会委員、昭和39年(1964年)同財務委員に就任した。昭和45年(1970年)9月 正四位勲二等瑞宝章を授けられる。 この節の出典[1]
年譜
明治32年(1899年) 旧制長野中学(長野県長野高等学校)に入学。
明治37年(1904年)9月 旧制第一高等学校英法科に入学。前年の明治36年(1903年)に夏目漱石こと夏目金之助が同校の講師となっている。
明治40年(1907年)7月 旧制第一高等学校英法科を卒業。
明治40年(1907年)9月 東京帝国大学法科大学政治学科に入学。
明治44年(1911年)7月 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
明治44年(1911年)8月 住友財閥の財閥グループ全てに対し統括指揮を行うホールディング会社である住友総本店に入社。
大正12年(1923年)第6回極東選手権競技大会(大阪開催)の総務委員長に就任。
大正14年(1925年) 日本陸上競技連盟常務理事に就任。
昭和4年(1929年) 日本陸上競技連盟副会長に就任。
昭和5年(1930年) 住友伸銅鋼管取締役に就任。
昭和6年(1931年) 住友アルミニウム
昭和7年(1932年) 住友伸銅鋼管常務取締役に就任。
昭和9年(1934年) 住友アルミニウム精錬取締役に就任。
昭和9年(1934年) 満州住友鋼管監査役に就任。
昭和10年(1935年) 住友金属工業常務取締役に就任。
昭和12年(1937年) 4月28日横浜港より4か月に及ぶ林内閣・近衛内閣欧米経済使節団員として米国、ドイツ、英国に渡航。