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議論の要約:相撲部屋記事の分割基準について
中川部屋(なかがわべや)は、かつて存在した時津風一門の相撲部屋。ここでは前身の春日山部屋(かすがやまべや、伊勢ヶ濱一門)についても記述する。 寛政年間に春日山鹿右衛門 1929年(昭和4年)1月に年寄・14代春日山(元関脇・藤ノ川)が伊勢ノ海部屋から分家独立する形で春日山部屋を再興したものの、1946年(昭和21年)11月には部屋を閉鎖して立浪部屋に弟子を預けた。 その後、1955年5月に立浪部屋の部屋付き親方である15代春日山(元大関・名寄岩)が幕内・大昇らを連れて、分家独立する形で部屋を再興した。15代春日山は直弟子から十両・白法山らを育てた。15代春日山は1971年1月に逝去したため、同年2月に部屋付き親方である12代浦風(元幕内・大昇)が16代春日山を襲名して部屋を継承した。16代春日山は幕内・春日富士らを育てた。1990年(平成2年)7月に16代春日山が定年退職を迎えたために部屋は閉鎖され、春日富士を含む所属力士は安治川部屋へと移籍した。 16代春日山が育て上げた唯一の幕内力士である春日富士は、1996年9月場所限りで現役を引退して年寄・20代春日山を襲名し安治川部屋の部屋付き親方となった後、1997年7月に分家独立して春日山部屋を再興し、自身が5歳から育った場所で現役中も居を構えていた神奈川県川崎市に部屋を設立した。神奈川県に開設された初の相撲部屋である。2002年7月場所において春日王が新十両へ昇進し、20代春日山が部屋を再興してから初となる関取が誕生した。2011年6月には所属力士不在となったために閉鎖された高島部屋から13代高島(元関脇・高望山)や行司など計4人を受け入れた。 2012年1月に20代春日山は日本相撲協会理事選挙で理事に選出される。20代春日山は部屋経営と理事職との両立は困難であるとして、同年2月に引退した同じ立浪一門の追手風部屋に所属する元幕内・M錦に21代春日山を襲名させて師匠の座を譲り、自身は16代雷を襲名して春日山部屋の部屋付き親方となり、理事専任となった。 しかし、同年9月20日付の『週刊新潮』で、16代雷の不倫と不正経理疑惑のスキャンダルが報じられる。16代雷は責任を取る形で、9月20日付で日本相撲協会を退職した。この際、21代春日山は部屋施設を20代春日山から賃貸契約で借り受けて運営する形をとっていた。 2013年10月4日、20代春日山が21代春日山に対して滞納分の賃貸料287万3548円の支払いと施設からの退去を請求する訴状を横浜地方裁判所川崎支部へ提出したことが明らかとなった[1]。20代春日山の主張では、2013年に入ってから部屋の賃貸料の滞納が続いており、21代春日山が賃貸料の支払いと施設からの退去要求に応じなかったためであるとしている[2]。 これに対して、21代春日山は11月8日に会見を開き、2013年に入ってから部屋の賃貸料が倍増となったのを知らなかったと釈明した。それと共に、20代春日山と現時点で春日山の年寄名跡証書[注 1]を保管しているとされるその知人の2人に対して証書の返還を求めて提訴する意向であることを表明し[4][5]、同月11日に横浜地方裁判所川崎支部へ訴状を提出した。 その後、20代春日山が21代春日山を提訴した民事訴訟では、2014年7月11日に21代春日山の給与や部屋維持費などの仮差し押さえを認める決定が下され[6]、その際には21代春日山側が20代春日山側の要求していた供託金を用意したために処分は取り消されたものの、2015年3月20日に再び仮差し押さえを認める決定が下された[7]。同年6月17日には同支部にて両者の和解が成立し、21代春日山側が同年9月末までに現在の部屋施設から退去し、未払いとされた2013年5月から2015年9月までの29ヶ月分の賃貸料1740万円を20代春日山側に支払うことで合意した[8]。この和解内容に基づき、部屋一同は9月場所後の9月28日に部屋施設から退去、川崎区の大師河原から池上新町へと新たに部屋を移転した[9]。 対して、21代春日山が20代春日山を提訴した民事訴訟では、2015年3月3日に横浜地裁川崎支部にて行われた訴訟の弁論準備において、20代春日山側は年寄名跡・春日山の資産価値を1億8000万円と試算した書面を裁判所へ提出した[10]。2016年8月2日に同支部は、相当対価は試算額を下回るものではなく、対価が支払われるまでは20代春日山側が年寄名跡証書を自ら保有する権利を有するとして、21代春日山に対して、同時点まで弁済したと判断した840万円を除いた金額である1億7160万円を支払うことを命ずる判決を下した[11]。8月4日に21代春日山は前述の判決を不服として控訴した[12]。 一方、10月12日に協会は、 の2点をもって、力士指導の面において21代春日山が師匠には不適格であると判断、辞任するように勧告した[13]。21代春日山はこの時点での回答を保留し、協会は1週間後の同月19日午前10時までに回答するように通告した[14]。 勧告を受けて、同月17日には部屋が立地する川崎市の福田紀彦市長は協会に対して部屋の存続を要請する要望書を提出した[15]。部屋後援会が中心にまとめた嘆願書には地元17団体2798人の署名が添えられ、後援会長と菊地義雄副市長、川崎商工会議所の加治秀基副会頭、川崎大師平間寺の藤田隆乗貫首が同日夕、協会に持参し辞任勧告撤回を求めた。協会側からは鏡山と尾車が対応し、地元の意向を理事会に伝える考えを示したという[16]。 翌18日には所属力士である幕下・水口と同・萬華城(まんかじょう)が勧告の撤回を求めて市内で会見を開き、同時に所属力士23人中11人が勧告撤回の嘆願書を協会へ提出したことが明らかとなった[17][注 3]。しかし、勧告が撤回されることはなく、21代春日山は19日午前、これを受諾することを表明した。これに伴い、部屋は閉鎖され、同日付で21代春日山と部屋付き親方である13代高島および力士23人・世話人1人・行司1人・呼出1人・床山2人は、次期師匠が新たに就任するまでの間の一時預かりという形で、同じ伊勢ヶ濱一門で21代春日山が現役時代に所属していた追手風部屋[注 4]へ移籍することが決定した。同時に年寄名跡証書の所有問題に関しては、協会側は未所有状況であることに変わりはないと認定したものの、裁判の決着まで結論を猶予する意向を示した[21]。 ただし、辞任が急遽決定したために、埼玉県草加市にある追手風部屋の施設では受け入れ態勢が困難であるという理由から、暫定的な措置として、20代春日山が所有するかつての春日山部屋の施設で所属力士を指導することが認められ、19日の内に一同が池上新町から大師河原へと再び移転した[22]。追手風部屋からは、部屋付き親方である15代中川(元幕内・旭里)が川崎へ移住した上で師匠代行として力士を指導することとなった[23]。 また、同日中に所属力士23人中12人が引退届を提出した[注 5]ものの、協会は翌20日、即座には受理せず保留とした[25]。同月27日までに、危機管理部長を務める8代鏡山(元関脇・多賀竜)が事情を説明した上で改めて電話で意思の確認を行ったところ、数人が引退を翻意する意向を示したことから、協会は改めて特例として受理を同年11月場所後の番付編成会議まで見送ることを決定した[26][27]。これを受けて、同場所における番付では12人も追手風部屋の所属として記載されたものの、全員が本場所には出場せずに全休し、結局は誰も引退の撤回を表明することなく、場所終了後の11月30日に引退が正式に発表された[28]。
歴史
春日山部屋
初代
14代・15代・16代春日山時代
20代春日山時代
名跡継承騒動
騒動の経緯
民事訴訟
21代春日山の師匠不適格処分による部屋の閉鎖
21代春日山が20代春日山から正式に年寄名跡証書を譲渡されていないこと。
同年9月場所中において21代春日山は稽古場に来て指導した日が1日もなかったこと[注 2]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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