春日三球・照代
メンバー春日三球
春日照代
結成年1967年
解散年1987年(照代の死にともなうもの)
活動時期1957年 - 2023年 (三球)
1960年代 - 1987年(照代)
師匠リーガル千太・万吉(三球)
春日目玉・玉吉
春日三球・照代(かすがさんきゅう・てるよ)は、日本の夫婦漫才コンビ。
「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの。」のフレーズで有名な地下鉄漫才で1970年代後半に一世を風靡し、落語家の立川談志をして「漫才でトリがとれる」と言わしめた。 三球はリーガル千太・万吉門下で、別の男性と『クリトモ一休・三休』の名で漫才コンビを組み、1957年に初舞台。『クリトモ』の屋号は、当時南千住にあった漫才の定打寄席『栗友亭
メンバー
春日 三球(かすが さんきゅう、本名:近馬 一正 - ちかま かずまさ、1933年10月21日 - 2023年5月17日) 夫、ボケ担当。東京府東京市荒川区(現在の東京都荒川区)出身。
春日 照代(かすが てるよ、本名:近馬 せつ子 - ちかま せつこ、1935年12月8日 - 1987年4月1日[1]) 妻、ツッコミ担当。大阪府大阪市出身。
来歴
春日三球・照代結成前
並いる若手の中でもテンポの良さで売り出し、1962年の第10回NHK新人漫才コンクールで優勝するなど、順風満帆のように思われた。ところがその直後の同年5月に、相方の一休が鉄道の三河島事故に巻き込まれて死去した。
このため、新しい相方(元ボーイズ・バラエティー協会所属のアコーディオン漫談家・ハウゼ畦元)と『第一球・三球』を組んで活動。その際に「三休」から「三球」に改名した。
一方、妻の照代は、上方夫婦漫才師『春日目玉・玉吉』の娘で、姉との姉妹漫才コンビ『春日淳子・照代』で13歳で初舞台。共に結婚・引退してコンビを解消している。 1965年に三球と照代で『春日三球・照代』を組み直し、夫婦漫才コンビで再出発した。売れる前は三球がウクレレ(実際に三球はウクレレは弾けず、弾いていなかった事が多い)を、照代がギターを持ち、テーマソングの「線路は続くよどこまでも」を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には「地下鉄漫才」が大ブレークして全国区になった。地下鉄ネタに続き、新幹線ネタや山手線ネタなどの鉄道ネタ、タクシーやエスカレーターといった乗り物全般に関するネタをシリーズ化して人気を維持した。 照代は、テレビ番組『新伍のお待ちどおさま』(TBS系)に出演中、クモ膜下出血に襲われ、舞台袖で急変し近くの大学病院に搬送されたが手遅れで手術できず、意識の戻らぬまま死去した。51歳没。 三球は再び人気絶頂で相方を失う憂き目に遭う。失意の三球を見兼ねた周囲が子役出身の声優で漫才経験のある若手女性芸人の芳賀みちる 三球はその後も精彩を欠くが、傷心が癒えると共に漫談家として再起し、NHKラジオ第1放送の『真打ち競演』等のラジオ番組や、NHK総合テレビの『笑いがいちばん』等のテレビ放送の演芸番組等に出演していた。1989年5月18日[3]、巣鴨地蔵通り商店街に山藤章二筆の巨大な似顔絵看板を掲げた『健康肌着の店-春日三球の店』を開店、ババシャツブームに乗って盛業中であったが2011年2月に閉店している[5]。 巣鴨にちなみ青空うれしと組んでの掛け合いも時折見せていたが、本格的な漫才コンビ再結成には到らなかった。 亡くなる6年前に脳梗塞を患い、治療の過程で薬の影響により2022年8月には胃潰瘍の傷からの出血が止まらなくなり吐血、下血して一時入院。退院後は自宅で介護を受けながら生活していたという[4]。 2023年5月17日、胃潰瘍の傷からの出血多量により、緊急搬送された都内の病院で死去した。89歳没。訃報は約1か月後の同年6月18日に明らかになった[4]。
夫婦漫才活動時
照代死去後
兄弟弟子
リーガル天才・秀才
ケーシー高峰
高峰和才・洋才[6]