映画の友
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映画の友(えいがのとも)、映画之友は、かつて存在した映画雑誌の名称である。発刊時期や出版元の異なる3つの雑誌[1][2][3]がこの名を用いた。

以下では、この3誌を創刊の古いものから順に説明する。
1. 映画の友(映画之友):1931-1940年、1946-1968年
映画世界社(後の映画の友社)[1][4]が出版していた外国映画専門の映画情報誌。1924年4月[5]に橘弘一郎(表記は「橘弘一路」[6][7]とも)が『映画世界』[5][8][注 1][注 2]として創刊[10][11]。1931年1月の第9巻第1号[注 3]で『映画之友』に改名した[12][5]。第二次世界大戦の戦時統制による雑誌の統合整理の対象となって1940年12月号で休刊し、他誌と統合されて下記2.の『映画之友』誌となった[7][14]。終戦後の1946年に復刊し[1][15][4]、1951年8月号で『映画之友』から『映画の友』へと改名した[16][4]が、出版元であった映画の友社が1968年に倒産した[17]ため、1968年3月号(1月発行)[1]を最後に休刊となった[17][4][18]。元編集長に橘弘一郎[10]大黒東洋士[19][15][4][17]淀川長治[4][18][20][17]など、元記者に小森和子[21]などがいる。最盛期には20万部を発行していた[17]
2. 映画之友:1941-1943年
映画日本社[2][4]第二次世界大戦中に3年間だけ出版した映画情報誌。『映画フアン』・『キネマ』・『新映画』[22]・『スタア』および上記1.の『映画之友』の合計5誌が戦時統制によって統合され、1941年1月[2][7]に『新映画』[23]と『映画之友』[2]の2誌が新たに創刊された[14]。上記1.の『映画之友』誌から誌名を引き継ぎ[14]、橘弘一路や大黒東洋士など編集スタッフも上記1.の『映画之友』誌と共通する[6][7]ものの、内容は刷新され[14][7]、より広い読者層を対象[14]とする日本映画中心の雑誌となった。さらなる雑誌統廃合を目指す情報局の意向により1943年12月号で休刊し[24][4]、『新映画』誌[25]に統合された[24]
3. EIGA NO TOMO(映画の友):1976-1986年
近代映画社[3]が出版していたポルノ映画専門の映画情報誌。1976年創刊[20]。創刊時には上記1.の『映画の友』誌から商標権を譲り受けたという[18][20]。誌名は漢字かな表記の『映画の友』[3][20][18]で言及されることもあるが、正式名称はローマ字表記の『EIGA NO TOMO』[18][3]で、ローマ字にしたのは上記1.の『映画の友』誌の関係者やファンへの配慮であった[18]。1986年8月に『EIGA NO HEYA』(映画の部屋)に改名[注 4][注 5][注 6]して3冊(8月の創刊号[28][26]、9月の別冊[29]、および10月の別冊[30])を発行し、1986年10月からは『映画ランド』[31]へと改名した[20][注 7][注 8]が、1990年に休刊した[20]。最盛期には40万部を発行していた[20][18]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『映画世界』誌の創刊時の主筆は古川緑波[5]、出版元は蒲田雑誌社[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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