星野 英彦
出生名星野英彦
別名ヒデ
生誕 (1966-06-16) 1966年6月16日(57歳)
出身地 日本, 群馬県藤岡市
学歴群馬県立藤岡高等学校卒業
ジャンルロック
職業ミュージシャン
担当楽器ギター・キーボード・コーラス
活動期間1985年 -
2007年(dropz)
レーベルHAPPY HOUSE
事務所BANKER
共同作業者BUCK-TICK
dropz
公式サイトdropz|@Victor Entertainment
星野 英彦(ほしの ひでひこ、本名同じ、1966年6月16日 - )は、日本のミュージシャン。BUCK-TICKでギターを担当。群馬県藤岡市出身。既婚。
1987年11月21日、BUCK-TICKの一員としてメジャー・デビュー。 デビュー初期の頃は「HIDE」と表記されていた。愛称は「ヒデ」。
身長179cm。血液型はA型。
2007年4月にソロ作品を「dropz(ドロップス)」名義でリリース。
経歴
1984年、同校の櫻井敦司、今井寿、樋口豊、アラキと共にBUCK-TICKの前身バンドである「非難GO-GO」を結成。翌年、バンド名を「BUCK-TICK」に改名。
1987年9月21日、InvitationよりBUCK-TICKのギタリストとしてメジャーデビュー。
1989年4月21日、今井寿がLSD使用による麻薬取締法(現「麻薬及び向精神薬取締法」)違反で逮捕されたことにより、バンドメンバー全員が半年間の謹慎処分を受ける。同年12月29日、東京ドームにて行われたライブ『バクチク現象』で復帰。
1991年10月21日、オムニバスアルバム 『DANCE 2 NOISE 001』に自身が作詞・作曲・編曲・ボーカルも担当した「Jarring Voice」を「星野英彦」名義で収録。実質上初のソロ楽曲である。
2006年6月、ホームページ上で結婚を報告。
2007年4月、ボーカルにケリー・アリを、マニピュレーターにCUBE JUICEを迎え、dropz名義でソロアルバムをリリース。
人物
バンドでの役割
BUCK-TICKにおいては主にリズムギターを担当。アルバム1作品につき2、3曲程度作曲する。インタビュー等での発言によれば基本的にはマイペースに作曲しているようであるが、「幻想の花」のように「どうしてもシングルで出したい」と主張した楽曲も存在する。
曲数こそ今井より圧倒的に少ないもののファン投票で上位にランクインする楽曲も多く、ファンクラブ会報誌「FISH TANK」で行われた第1回アンケートでは好きな曲第1位に「JUPITER」が選ばれ(第二位は「さくら」)、『CATALOGUE 2005』リリースに際しHMVが行ったファン投票では「ミウ」が1位を[1][2]、またファンクラブ会報誌でのB面曲投票でも「ナルシス」が1位をそれぞれ獲得している。
また、過去に1曲だけ作詞を担当したことがある(『悪の華』の「PLEASURE LAND」)。『Mona Lisa OVERDRIVE』の「BLACK CHERRY」も櫻井敦司と星野の共作となっているが、星野が考えたのはサビの「BLACK CHERRY」というフレーズのみである。
自作曲のレコーディング時はこだわりが強く、具体的な要求をしてくるケースが多いとのことである。ヤガミトールは「昔からヒデの方がこだわりが強い。本人のイメージとちょっと違うとチェックが入る(笑)。今井は面白かったらアリだから」と語っている。[3]
1992年ごろよりキーボードを習い始め、一時期ライブでもキーボードを演奏していた。近年は曲作りやレコーディングでこそ使用するものの、「ステージ上で演奏することは二度とない」と語っている。[4]
ギターとキーボード以外にもオールマイティに様々な楽器を演奏する。
BUCK-TICK内で一番最初にオリジナル曲を作曲した。タイトルは「ソルジャー」[5]。後に「フリークス」と改名したが、メンバーからは「どんよりとした暗い曲だ」「マイナーすぎる」と不評だったため、お蔵入りとなり音源化もされていない[6]。本人いわくミディアムでマイナーコードな8ビートの楽曲だったという。
デビュー当初は「やさしさ自然体」というキャッチコピーを付けられていた。雑誌のインタビュー記事でも無口で穏やかな雰囲気であることを記されることが多い。
櫻井敦司曰く「バンドのオアシス」。デビュー当時の「メンバーを植物に例えると?」というインタビューでは「盆栽」とコメントされていた[6]。また1980年代はメンバー内で最も顔が老けていると言われ、他メンバーから「(メンバーの10年後について)ヒデだけいいジジイ」などと度々ネタにされていた[6]。
生い立ち
3人兄妹の次男であり、5歳上の兄と4歳下の妹がいる[6]。実家はかつて鮮魚を中心とした食料品店を営んでいた。非難GO-GOの初ライブは、当時東京理科大学に通っていた兄の白衣にペイント等を施した衣装で出演した。兄は現在ローランドにて開発の仕事に携わっている[7]。
従姉妹は、通っていた文化女子大学の学園祭にBUCK-TICKを出演させるブッキングをしたり、「FULL VOLUME」というバンド初のファンクラブを立ち上げ会報も作成するなど、インディーズ時代のBUCK-TICKの活動をサポートしていた[7]。
幼少時代から背が高く、整列するとだいたい一番後ろだったという[6]。
物心がついた頃より左耳の聴力障害を患っており、現在に至るまでまったく聴こえないという状態である。そのため、ステレオの感覚がよく分からないと語っている。しかし音楽活動をする上での支障はほとんどなく、むしろ日常生活の方がストレスを感じる機会が多いという[7]。
群馬県立藤岡高等学校出身。小・中・高とサッカー部に所属。中学3年時にはゴールキーパーとして群馬県の中学選抜チームに抜擢されるほどの腕前だった[7]。現在の趣味はスノーボードであったり、GLAYのTERUが主催するフットサルチームでプレイするなど[8]スポーツマンな一面もある。
高校2年時にクラスメートだった樋口豊に誘われたのがきっかけで、今井の実家に出入りするようになる。すでに今井がバンド結成を志した直後のことであり、当初のメンバーでは最後の加入となった。身長が高くルックスも良かったことから、当初樋口は星野をボーカリストに置こうと推していた[7]。
しかし今井と櫻井、そして星野本人も「(樋口はバンド内で)自分1人だけ年下というのが嫌だったんだろう」と推測している。[7][9]
人生最初のギターはグレコのストラトキャスター[6]。当時ヤガミトールが組んでいたバンド「S.P」のギタリスト[10]から2万円で譲り受けた物で、彼からギターも教わった。当初はギターケースを持っていなかったため、毎回紙袋に入れてネックがはみ出た状態で持ち歩いていた[7]。