星野 伸之オリックス・バファローズ一軍投手コーチ時代
(2012年7月8日 QVCマリンフィールド)
基本情報
国籍 日本
出身地北海道旭川市
生年月日 (1966-01-31) 1966年1月31日(58歳)
身長
体重183 cm
74 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1983年 ドラフト5位
初出場1985年7月9日
最終出場2002年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
北海道旭川工業高等学校
阪急ブレーブス
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ (1984 - 1999)
阪神タイガース (2000 - 2002)
コーチ歴
阪神タイガース (2006 - 2009)
オリックス・バファローズ (2010 - 2017)
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星野伸之
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星野 伸之(ほしの のぶゆき、 1966年1月31日 - )は、北海道旭川市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。現在は野球解説者、野球評論家として活動している。
タイトル獲得は多くないものの、11年連続二桁勝利を記録するなど、パ・リーグを代表する投手として活躍した。その実績と端正な顔立ち、およそ野球選手らしくない細身な体型から同リーグの、西崎幸広、阿波野秀幸、渡辺久信らと共に「トレンディエース」と呼ばれ[1]、「星の王子さま」の愛称で親しまれた(「トレンディエース」の時代背景などは西崎の項を参照)。 北海道旭川市出身。幼少期から野球が好きで、北海道という土地柄から読売ジャイアンツ(巨人)のファンであった[注 1][3]。阪急との接点はほとんどなかったが、家に山田久志、福本豊、山口高志のポスターが貼ってあり、兄と一緒に日本シリーズで見た山田や山口のフォームを真似していたという[4]。 旭川工業高校では、1年生から野球部のエースとして過ごした[3]。秋の新人戦を前に、遊びたい誘惑に駆られて一度は退部したものの、父親の激怒や野球部の恩師(部長)による引き戻しもあり、渋々戻って野球を続けた[5]。2年生の秋季北海道大会(1982年)は旭川支部予選の決勝で旭川竜谷高に完封負け、3年生の春季北海道大会(1983年)では1回戦(対北海道日大高)で敗退するなど、甲子園出場にはほど遠いチーム成績であったが、それでも北海道拓殖銀行の野球部(たくぎん野球部)から内定をもらうことができた[6]。 ところがその後、「貴重なサウスポー」「カーブが面白い」「脹脛が太い」などの理由で阪急ブレーブスから声が掛かり[6]、同年のドラフト会議で阪急から5位指名を受けて入団。プロでやっていく自信は全くなかったが「大学に入るつもりで4年間は頑張ってみよう」と思い入団を決意した[4]。背中を押してくれたのは、またも野球部の恩師であった[7]。担当スカウト当銀秀崇[8]。 プロ1年目の1984年は1年を通して二軍(ウエスタン・リーグ)で過ごした[7]。二軍での練習後、一軍の練習に加わって打撃投手を務めているうちに、その独特のカーブが注目され(福本豊が空振りしていた)、次第に二軍の試合で使われるようになった[9]。 1985年のシーズン途中、駒不足となった二軍で先発・完封すると、そのまま二軍で先発ローテーション入りして4連勝するなど評価され、一軍(パシフィック・リーグ)へ昇格[10]。7月29日の対西武戦で今井雄太郎をリリーフしたプロ初勝利を含め、2勝を挙げた。 1986年は5月から先発の一角として起用され9勝、初めて規定投球回(9位、防御率3.88)にも達する。同年オフに更なる飛躍を目指してフォークボールを覚える[11]。 1987年には、パ・リーグ5球団完封を含むリーグ1位の6完封を記録して11勝、以降1997年まで11年連続で2桁勝利を挙げ、1995年、1996年のリーグ連覇にエースとして大きく貢献した。1995年のヤクルトスワローズとの日本シリーズでは2試合に登板。第3戦では先発し、吉井理人と投げ合うが4回1失点で降板、勝ち負けはつかなかった。1996年の読売ジャイアンツ(巨人)との日本シリーズでは2試合に先発。いずれも斎藤雅樹と投げ合うが、第1戦では5回途中、第5戦では4回途中に降板。勝利はならなかったが日本一に貢献している。 1989年と1996年には最高勝率のタイトルも獲得。なお1995年の夏までは、フリーエージェント (FA) の権利を行使してセントラル・リーグの阪神タイガースへFA移籍しようという考えに傾いていたが、この時は阪神の球団体質への不信感に加え、高額年俸選手が次々と戦力外になっていた例が多かったため翻意し、11月2日にオリックス球団と2度目の契約交渉を行った上でFA権を行使し、年俸1億2,000万円の3年契約+再契約金3,000万円でオリックス残留を決めた[12]。星野本人はこの時の交渉で年俸1億5,000万円を要求していたが、球団代表の井箟重慶から「年俸は3年間据え置きではなく、成績が良ければアップする」として提示された条件を受け入れ、「現状を見ると、年俸が高くなりすぎるとクビを切られやすくなっている。
経歴
現役時代