星野一義
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星野一義
Kazuyoshi Hoshino

基本情報
国籍 日本
出身地同・静岡県安倍郡玉川村
生年月日 (1947-07-01) 1947年7月1日(76歳)
F1での経歴
所属チーム.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

'76 ティレル

'77 コジマ

出走回数2
タイトル0
優勝回数0
通算獲得ポイント0
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1976年日本GP
最終戦1977年日本GP
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星野 一義(ほしの かずよし、1947年7月1日 - )は、日本の元レーシングドライバーである。現在は株式会社ホシノインパル代表取締役社長。静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身。血液型:A型。現役時代は「日本一速い男」と呼ばれた[1][2]

レーシングドライバーの星野一樹は長男。
経歴
2輪時代

生家は生菓子の製造・販売業を営み、周囲と比して裕福な家庭に育った。野球少年だった星野は、父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、乗り物好きでもあった。中学生の時には無免許にもかかわらず、父親からオートバイを買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたという[3][注釈 1]。この頃には「オートバイ」や「モーターサイクリスト」などのオートバイ雑誌を読み漁っては、マン島TTレースロードレース世界選手権(WGP)に参戦している北野元高橋国光が駆るホンダのマシンに思いを馳せていた[4]

星野は東海大学第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)を1年生の1学期が終わったところで中退し、しばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、ほどなくして当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川県に移り、カワサキワークスライダーだった安良岡健に弟子入りを志願、安良岡の同僚だった三橋実が率いるカワサキ系モトクロスチーム「カワサキ・コンバット」に加入した。16歳になった星野は、ここで後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊[注釈 2]と出会っている[5][6]。しかし、1964年のデビューレースでは転倒し脳震盪のため搬送され入院というデビューだった[7]

1967年に夫人と結婚[8]。翌1968年には同じカワサキ系ワークスチームの「神戸木の実レーシング」(片山義美が主宰)に移籍してカワサキの契約ライダーとなる。同年の全日本モトクロス選手権の90cc・125cc両クラスではチャンピオンを獲得し、タイトル獲得の褒美としてセニア最優秀選手に選ばれ、日本モーターサイクルスポーツ協会 (MFJ) からヨーロッパ視察旅行を与えられた[9]
4輪時代

星野はモトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じており、練習場である富士スピードウェイ脇のダートコースから名物の30度バンクを駆け抜ける四輪レーサーを見て憧れを抱いていた。一度は収入面でモトクロス界より安定が見込めるオートレース転向も考えていた[9]が、翌1969年にモトクロス仲間の歳森康師の推薦で日産自動車ワークスドライバーのテストを受け合格したのを機に、二輪から四輪へと転向した[10][11]1970年に日産に入社し、東京都大田区大森にあった日産宣伝部の契約ドライバー(俗に「大森ワークス」と呼ばれる)となり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍する[12]。星野はスカイラインフェアレディでのレース参戦を望んでいたが、星野の希望するこれらのマシンは一軍格である追浜ワークス高橋国光北野元黒沢元治らが乗るものであり、日産での二軍に相当する大森ワークスの星野は新開発の前輪駆動(FF)車であるチェリーでの参戦を指示され、FF車が好きではない星野は内心「FFは(星野が嫌いな)アンダーステアも出るし、なんでFFでレースしなきゃいけないんだ」と思いながら参戦していたという[映像 1]

1974年、大森ワークスの先輩(リーダー)である鈴木誠一と折半で、マーチF3のシャシーを購入[注釈 3]し、FJ1300に参戦[13]。エンジンは、鈴木たちが設立した東名自動車(現・東名パワード)がチューニングを手掛けた[13]。星野はFJ1300のデビュー戦で優勝[14]。この頃には第一子となる長女が誕生して一児の父となった[8]

1975年、国内トップカテゴリーの全日本F2000選手権に第2戦から参戦を開始。参戦した4レース全てでポールポジションを獲得し、うち2勝を挙げてシリーズチャンピオンを獲得した[15]。この王者決定レース後、観戦に来ていた父親を見つけ、それまで観戦したいなどと一度も言ったことのない父が、実は静岡から離れた鈴鹿まで来てレースを見ていたことを初めて知った。その時の父親はチャンピオン獲得した星野を見て感極まっており、その顔を見たことは星野にとって生涯忘れられない記憶になったという[16]

1976年ヒーローズレーシングに加入[17]。全日本F2000では2勝を挙げランキング4位となる。10月に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンにはヒーローズからスポット参戦。マシンは旧型のティレル・007で、決勝レースでは大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイアした[18][19](正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、全日本F2選手権全日本F3000選手権富士グランチャンピオンレース全日本FP選手権全日本耐久選手権全日本ツーリングカー選手権 (JTC) においてチャンピオンの常連となり、レースファンやメディアから「日本一速い男」と呼ばれるようになる[20]

1977年にはヒーローズでの2年目を迎え、前年に初の2000ccレース出場で好走を見せた6歳後輩となる新人中嶋悟が加入[21]、星野のチームメイトとなった。F2000で星野は8戦中4勝を挙げチャンピオンを獲得。秋のF1日本GPコジマエンジニアリングKE009にて参戦、11位完走を果たす。同年10月には第二子となる長男の一樹が誕生した。

1978年、ヒーローズでのNo.1ドライバーは完全に星野だったが、この年のF2000第3戦鈴鹿で中嶋がポール・トゥ・フィニッシュで星野を破って以降、徐々に両者の関係には緊張状態が生じる。同年、中嶋がイギリスF3に参戦するため、競技ライセンスをJAF競技ライセンスからイギリス王立自動車クラブ(RAC)発行のものに切り替えたこともあり、F2000タイトルは星野が獲得することになったが[注釈 4]、シーズン終了後に中嶋が「チームにエース2人はいらないよ」とヒーローズから離脱、生沢徹の率いるチームi&iに移籍した[21]

同年6月、星野曰く「頭の中に常にあった」というヨーロッパ挑戦を実現させ[20]ヨーロッパF2第6戦ルーアン・レゼサール[22]と第7戦ドニントン・パークの2戦にスポット参戦した。日本で連勝していた体制をそのまま持ち込み、ヒーローズのノバ532・BMW(ケン松浦チューン)にブリヂストンタイヤで参戦したが、ヨーロッパF2で多勢を占めていたマーチ782・BMWとグッドイヤータイヤのパッケージには予選タイムで及ばず[23]、決勝もドライブシャフトのトラブルが立て続き2戦ともリタイア[24][25]。当初予定では第10戦エンナまで参戦予定だったが、ドライブシャフトのスペアがなくなってしまったためドニントンパークのレースにて遠征を終了せざるを得なかった。この遠征には当時の金額で1,200万円を費やした[20]。以後、星野はヨーロッパへの思いを封印し、国内レースへと集中することを決意した。

1980年、ドライバーとしてはヒーローズと契約更新するが、かねてより考慮していた自身の会社設立に動き、モトクロス時代の仲間である金子豊と共に「ホシノインパル」を設立。星野は当時32歳であったが、先輩レーサーを見ていてその定年が30代半ばで来ると感じ、現役トップの頃に自分で会社を作り、自動車を通じたビジネスを成功できれば、との思いがあった。なお、当初は飲食店での起業も考えたというが、自分には車しかないと考え、まずはホイールからやってみようとエンケイの鈴木順一社長に相談。しかし星野がデザインに携わったインパルホイールをエンケイ工場で試作木型にて立体化してみると、そのデザイン性の欠如と、商品としての魅力を感じないことに星野は愕然とし、目の前が真っ暗になったという。その星野の様子を見た鈴木は資料やデザイン提供などの協力で星野を助け[26]、星野は後年「インパルが成功できたのはあの時鈴木社長が思いやりで僕を助けてくれたから」と感謝を述べている[27]


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