星松三郎
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日本政治家星松三郎ほし まつさぶろう
生年月日1855年6月11日
出生地 日本 宮城県登米郡
(現宮城県登米市迫町岩沼)
没年月日 (1906-04-18) 1906年4月18日(50歳没)
前職商業
所属政党(無所属→)
(立憲改進党→)
(無所属→)
(進歩党→)
憲政本党
親族甥・星廉平(衆議院議員)
衆議院議員
選挙区(東京府第2選挙区→)
宮城県郡部選挙区
当選回数3回
在任期間1898年3月 - 1902年8月9日
1905年5月 - 1906年4月18日
東京市会議員
芝区会議員
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星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2年4月27日[1])- 1906年明治39年)4月18日[2][3])は、明治期の実業家政治家衆議院議員
経歴

宮城県[2]登米郡、のちの佐沼町[4][5][6][7]迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、商人・星松治郎の第七子二男として生まれた[1][3][4][5][7][8]。邑儒・中村竹徑に師事し[3]、さらに英学を修めた[2][6][7]。1875年(明治8年)から水害救民救恤係、勧業世話役、衛生委員、学校世話役などを務めた[2][7]

その後上京して商業を営む[4][5][7]が不景気となり[7]、1884年(明治17年)から1886年(明治19年)にかけて全国の民情視察を2回実施して、その報告書を作成して頒布した[7][8]。1886年10月には欧米の政治経済の視察旅行を行った[1][3][4][5][7][8]

1885年(明治18年)芝区会議員に当選[7]。1890年(明治23年)6月、東京市会議員に当選[1][7]。以後、東京市参事会員、同市公園改良臨時委員、同市学務委員、芝区学務委員、東京水道常設委員、芝区学校建築委員長、芝区学務委員長、芝区会議長代理者、徴兵参事委員などを務めた[2][4][5][6][7][8]

1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙東京府第2区進歩党)で初当選し[1][4][5]、以後、第6回総選挙(東京府第2区)、第9回総選挙補欠選挙(宮城県郡部)で再選され、衆議院議員に通算3期在任したが[2][6]、議員在任中の1906年4月に死去した[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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