星名謙一郎
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ほしな けんいちろう
星名 謙一郎
若かりし頃
生誕慶応2年10月10日1866年11月16日
伊予国宇和郡吉田 日本愛媛県宇和島市吉田町西小路)
死没1926年大正15年)12月13日
ブラジルサンパウロ州アルバレス・マッシャード(ポルトガル語版)
死因射殺
墓地アルバレス・マッシャード日本人墓地(ポルトガル語版)
出身校東京英和学校
著名な実績『南米』発刊、バイベン植民地・ブレジョン植民地開設
宗教キリスト教
配偶者星名ヒサ
非婚配偶者玉
子供星名秦、江上幸子
親星名幸旦、コウ
親戚婿:江上波夫
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星名 謙一郎(ほしな けんいちろう、慶応2年10月10日1866年11月16日) - 1926年大正15年)12月13日)は戦前の日本人移民伊予吉田藩出身。東京英和学校を卒業後、ハワイキリスト教伝道コーヒー栽培等を行った。テキサス米作に失敗した後、ブラジルで再起し、邦字新聞『南米』を創刊、バイベン植民地・ブレジョン植民地を開発し、日本人移民の先駆者の一人となったが、周囲とトラブルが絶えず、元使用人に暗殺された。
生涯
日本時代

慶応2年(1866年)10月10日、伊予国吉田、現在の西小路宇和島自動車吉田営業所向かい側辺[1]伊予吉田藩士星名幸旦の長男として生まれた[2]。上京して麻布区狸穴町1番地に住み、1883年(明治16年)東京英和学校に入学した[3]。1887年(明治20年)予備学部を卒業し、1888年(明治21年)まで同校でリバイバルを主導した[4]。卒業後上海にいたという記録もあるが、詳細は不明[5]
ハワイ時代

1891年(明治24年)ハワイ王国に渡り、ワイアケア耕地でサトウキビ栽培に従事した。労働者の待遇について耕主と対立し、耕地を追われるところ、牧師岡部次郎に見出されて伝道師として雇われ、岡部の帰国中ヒロ管区を監督した[6]。1891年(明治24年)オーラアに土地を借り、コーヒー栽培を始めた[7]

1893年(明治26年)パパイコウ(英語版)のオノメア砂糖会社に戻り、伝道とプランテーションの監督を兼務した[8]

1895年(明治28年)岡部次郎から新井某と共に『布哇新聞』経営を引き継いだ[9]。同年新井とモリ某から借金を取り立てる際、刃傷沙汰を起こした[10]。また、記者時代三面記事がもとで暴漢に襲われ、反撃の際絞殺してしまったことがあるという[11]

1896年(明治29年)には税関査定部門で通訳を務めるも、アヘン取引に手を染め[12]、10月懲役1年罰金500ドルの刑を受けた[13]

1897年(明治30年)9月25日出獄後[7]、一時帰国して松山市杉谷町に住んだ[14]。1898年(明治31年)9月ハワイに戻り[14]、ウィリアム・グデールが経営するワイアルア(英語版)耕地に滞在し、その後オーラアで雑貨店を営むなどした[15]。また高利貸しも営み、1903年(明治36年)沖寛に訴訟を起こされている[16]
テキサス時代

1904年(明治37年)1月長女の夭逝を機に、元同志社社長西原清東を頼ってテキサス州に渡り、当地で進行中の米作事業に加わったが、失敗した[17]。妻久子の父末光三郎の病気のため帰国し[18]卯之町の末光家別荘、松山市持田町の妹キヨの嫁ぎ先津下家に住んだ[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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