星加ルミ子
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星加 ルミ子(ほしか ルミこ、1940年9月10日 - )は、日本の音楽評論家北海道赤平市出身[1][2]。1965年から1975年まで、音楽雑誌ミュージック・ライフ』の編集長を務める。1965年に日本人ジャーナリスト初のビートルズとの単独会見を成功させた[3]。ビートルズに最も近いジャーナリストとして知られている[4]
経歴[ソースを編集]

1940年9月10日、北海道札幌市に生まれ、赤平市で育つ[1][2]。小学4年生の時に父親の転勤で、青森県八戸市に転居。6年生の時からFNSのアメリカのポピュラー・ソングを聴くようになり、青森県立八戸高等学校に通学していた16歳の時、エルヴィス・プレスリーの曲を聴いて衝撃を受ける。高校2年生の時に母親が死去。高校卒業と同時期に父親が東京へ転勤。弟妹とともに東京の父親の実家で暮らす。東洋女子短期大学(現・東洋学園大学)の英文科に進学[5]

1961年、短期大学卒業後に新興楽譜出版社(現・シンコーミュージック)に入社。音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の編集部に配属される。1965年に編集長に就任し、同年6月15日、日本人ジャーナリストとして初のビートルズとの単独会見を成功させる[6]1966年の来日公演時にも独占取材を成功させ、最後のアメリカ公演にも同行し、取材した[7]。このアメリカ公演取材中に、エルヴィス・プレスリーの父親であるヴァーノン・プレスリーと面会し[8]テネシー州知事からは草野昌一長谷部宏とともに「テネシー州名誉市民証」を授与されている。1970年のビートルズ解散時まで、毎年取材を行っている[9][10]

新興楽譜出版社の社員として、海外の音楽出版社との楽曲の契約、アメリカの『ビルボード』誌やイギリスの『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌との提携、洋楽の訳詞なども手掛ける。日本のグループ・サウンズのバンド名「カーナ・ビーツ」の名付け親である[11]1975年にシンコーミュージックを退社した後、フリーの音楽評論家として活動している[12]
テレビ・ラジオ出演[ソースを編集]

音楽番組『ビート・ポップス』(1967年-1970年、フジテレビ)[13]

FM25時 星加ルミ子のポップスジェネレーション(エフエム東京

書籍[ソースを編集]
著書[ソースを編集]

『ビートルズとカンパイ! : わたしの出会ったビートルズ』シンコー・ミュージック 1983.

『太陽を追いかけて : ビートルズ・ロッキュメンタリー』TOKYO FM出版 1996.

『BEATLES太陽を追いかけて : ザ・ビートルズフォーエバー』竹書房 2013.

『私が会ったビートルズとロック★スター = The Beatles and Rock Stars I Ever Met』シンコーミュージック・エンタテイメント 2016.

翻訳[ソースを編集]

『これがビートルズ』(青柳茂樹共訳) 新興楽譜出版社 1965.

『ビートルズ詩集』 新興楽譜出版社 1969.[14]

『ロックの覇王 レッド・ツェッペリン物語』 シンコー・ミュージック 1976.3.15

『ビートルズストーリー』 洋版出版株式会社 1977.1

訳詞[ソースを編集]

サウンド・オブ・サイレンス」 サイモン&ガーファンクル

シング」 カーペンターズ 

マスカレード」 レオン・ラッセル

オーバー・ザ・レインボー?虹の彼方に」 レオン・ラッセル

カレンダー・ガール」 ニール・セダカ

マイ・スウィート・ロード」 ジョージ・ハリスン


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