明雲
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明雲
永久3年(1115年) - 寿永2年11月19日1184年1月3日
法名明雲
号円融房・慈雲房
宗派天台宗
寺院延暦寺
師弁覚
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明雲(みょううん[注釈 1])は、平安時代末期の天台宗久我顕通の長男。弟に久我雅通目次

1 生涯

2 人物

3 登場作品

4 注記

5 出典

6 外部リンク

生涯

比叡山の弁覚法印から顕教密教を学び、天台座主最雲法親王の法を継いだ。仁安元年(1166年)、僧正に任じられ、翌仁安2年(1167年)、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。治承元年(1177年)、延暦寺の末寺である白山と加賀国国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する(白山事件)。

治承3年(1179年)、治承三年の政変院政が停止されると座主職に再任され、寿永元年(1182年)には大僧正に任じられた。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌寿永2年(1183年)、源義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦義仲四天王の一人である楯親忠の放った矢に当たって落馬、親忠の郎党に首を斬られた[注釈 2]。義仲は差し出された明雲の首を「そんなものが何だ」と言って西洞院川に投げ捨てたという。在任中の天台座主が殺害されたのは明雲が最初であった。同合戦で殺害された円恵法親王の遺骨とともに高野山へ運ばれる。

後任の天台座主には義仲の追従者だった俊堯が置かれた。
人物

明雲により受戒を受け、自らもまた天台座主に任じられた
慈円はその著作『愚管抄』において、明雲が最高位級の僧侶の身でありながら自ら戦場において殺生を行い、その挙句に戦死したという事実について、激しく糾弾した。その一方で『今鏡』は「世の末におはしがたい」座主として高い評価を与えている。

吉田兼好は『徒然草』第146段において、明雲から「自分は兵難の相があるだろうか」と問われた人相見[注釈 3]が「確かにございます」と答え、重ねて「それはどのような相か」に問われたのに対して「いやしくも他人より傷害される恐れのない僧侶の身でありながら、そういうことを懸念されお尋ねなさることに、兵難の凶兆が現れております」と述べた逸話を紹介している。

登場作品
テレビドラマ


新・平家物語』(1972年、NHK大河ドラマ、演:六代目瀬川菊之丞

平清盛』(2012年、NHK大河ドラマ、演:腹筋善之介

注記^平家物語』『徒然草』では、「めいうん」という読みで呼ばれる
^源平盛衰記』巻34「明雲八条宮人々被討」。流れ矢であったとする説もある。
^ 『同上、「信西相明雲言」では、この人相見を信西入道としている。

出典
外部リンク

平家物語のあらすじと登場人物(18)天台座主・明雲
- ウェイバックマシン(2012年7月9日アーカイブ分)

木曽義仲大研究・人物紹介「明雲」

平家余聞 - 海峡からの展望 80「射殺された座主明雲」










天台座主

義真

円澄

円仁

安慧

円珍

惟首

猷憲

康済

長意

増命

良勇

玄鑑

尊意

義海

延昌

鎮朝

喜慶

良源

尋禅

余慶

陽生

暹賀

覚慶

慶円

明救

院源

慶命

教円

明尊

源心

源泉

明快

勝範

覚円

覚尋

良真

仁覚

慶朝

増誉

仁源

賢暹

仁豪

寛慶

行尊

仁実

忠尋

覚猷

行玄

最雲法親王

覚忠

重愉

快修

俊円

快修

明雲

覚快法親王

明雲

俊堯

全玄

公顕

顕真

慈円

承仁法親王

弁雅

慈円

實全

眞性

承円

慈円

公円

慈円

承円

円基

尊性法親王

良快

尊性法親王

慈源

慈賢

慈源

道覚法親王

尊覚法親王

尊助法親王

再仁法親王

澄覚法親王

尊助法親王

慈禅

澄覚法親王

道玄

公豪

再源

尊助法親王

再助法親王

慈實

慈助法親王

尊助法親王

慈助法親王

源恵

慈基

尊教

良助法親王

道潤

道玄

覚雲法親王

公什

慈道法親王

仁澄法親王

覚雲法親王

慈勝

親源

澄助

慈道法親王

性守


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