あかし じゅんぞう
明石 順三
生誕1889年7月1日
滋賀県坂田郡息長村岩脇[1][2]
洗礼1907年にプロテスタント系の神田教会で受洗[3]
死没 (1965-11-14) 1965年11月14日(76歳没)
栃木県鹿沼市西鹿沼[4]
墓地滋賀県坂田郡息長村岩脇[5]
出身校滋賀県立彦根中学校(後の滋賀県立彦根東高等学校)を2年で中退[1][2]
職業宗教家
団体ワッチタワー日本支部 灯台社
影響を受けたものジョセフ・フランクリン・ラザフォード[6]
宗派ワッチタワー(エホバの証人)1947年に除名
罪名治安維持法違反
刑罰懲役10年
犯罪者現況1945年10月9日に釈放[7]
配偶者名前不明[8]、静栄[8]、静子[9]
子供真人、力(つとむ)、光雄[8]
親父:道貞[5]
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明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 1965年11月14日)は、日本の宗教家[10]。1927年にワッチタワー(エホバの証人)の日本支部として灯台社を創立した[11]。聖書に基づく信仰から戦争に反対し[12]、1939年に検挙され、治安維持法違反で懲役刑を受けた[13]。第二次世界大戦後の1945年10月に釈放されたが[13]、1947年にエホバの証人のアメリカ合衆国本部を批判してエホバの証人から除名された[14]。 1889年7月1日に滋賀県坂田郡息長村(現・米原市)岩脇(いよぎ)で生まれた[1][2]。順三の生まれた家は彦根藩で代々藩医を務めていて、父の道貞は外科医[1]あるいは漢方医だった[5]。 順三は滋賀県立彦根中学校(後の滋賀県立彦根東高等学校)を2年で中退し[1][2]、1907年に東京に行きプロテスタント系の神田教会の牧師である島貫兵太夫(しまぬき へいだゆう・ひょうだゆう[15])が主宰する力行会に入った[1]。力行会は経済的に苦しい若者を支援し、経済的成功を目的として移民することを奨励していた[1]。順三は入会の条件であった洗礼を受けたが、同じころ力行会に入り後にホイットマン研究家になった長沼重隆によると「茶目っ気に富んだ無神論者的日常であったという。」[3]。 順三は翌年1908年にアメリカ合衆国に渡り、働きながら独学した[16][17]。1914年にロサンゼルスの日本語新聞のサンディエゴ支社の記者になった[18]。1921年にワッチタワー(エホバの証人)の教義を知り[19]、1924年に新聞記者を辞めて、ワッチタワーの講演伝道者になり、アメリカ合衆国各地で布教活動をした[20]。
生涯
生い立ち
布教活動