明石電車区
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明石電車区(あかしでんしゃく)は、兵庫県明石市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)の乗務員区所である。かつては車両基地として車両が配置されていたが、現在その機能は網干総合車両所明石支所に移されている。

1937年10月10日東海道本線京都駅 - 吹田駅間の電化開業に伴い、京阪神緩行線の運転区間が拡大され、運用車両も増加したことから、先に開設されていた明石操車場の一角に、1937年昭和12年)8月10日付で宮原電車区(現在の網干総合車両所宮原支所)に続く電車区として開設された。

本稿では、明石電車区の記述を中心に、隣接する敷地にあった明石操車場及び明石機関区[1]についても併せて紹介する。
概要

近畿統括本部が管轄する乗務員区所で、運転士が所属している。車両配置があった頃は、神戸派出所・明石ホーム派出所も設置されていた[2]

明石操車場開設時には、操車場最奥部に当たる東側に明石機関庫の設備が設けられた。操車場構内に電車区を開設する際に、操車場南側の配線変更と電化、検修庫等必要施設の建設を行い、客車操車機能は北側に集約された[3]。戦時中の機関区・操車場の廃止と戦災復興の過程で敷地が順次拡大され、1950年代後半には現在の姿に近い状態となった[4]。その後、1961年6月15日西明石駅が現在地に移転したことから、旧駅部分も電車区に転用され、敷地の拡大に活用された。
配置車両の車体に記されていた略号

機関区と電車区及び操車場では略号の記載方法が異なっていた。

機関区では、機関車の運転台窓下にある機関区名札差しに、明石の頭文字である「明」一文字を書いた札を差し込んでいた。

電車区及び操車場は所属組織の略号と、電報略号で構成されるが、電車区が明石の電報略号である「アカ」で表記されたのに対し、客車操車場は戦前「」として取り扱われていた[5]ことから、「明石操車場駅」を示す電報略号である「アカソ」で表記されていた。よって、大阪鉄道局の略号「大」と電報略号「アカ」の組み合わせで開設時「大アカ」と表記された明石電車区所属の電車に対し、明石操車場所属の客車は「大アカソ」と表記されていた[6][7]

国鉄時代は上記のとおり大アカ[8]で、JR発足後は近アカ[9]であった。その後の組織改正により「本アカ」[10]となり、1993年6月に神戸支社が発足して「神アカ」[11]を経て、2010年12月1日の組織改正により[12]近アカ[13]となった。

車両表記については、網干総合車両所統合時に、一旦は本所と同じ「神ホシ」→「近ホシ」としていたが、宮原支所の統合後に「近アカ」に変更された。
過去の配置車両

この項では、機関区、操車場、電車区で分けて記述する。
明石機関区

機関区開設期間は約13年と短かったが、そのほとんどの期間にC53形が配属され、超特急「」をはじめとした東海道本線の優等列車牽引を担当していたことから、「C53の明石か、明石のC53か」と言われるほど、優等列車用のC53形専門機関区として有名であった。もっとも、開設当時は京阪神地区の東海道・山陽本線の電化開業前であったことから、前身の神戸機関庫が担当していた優等列車仕業と京阪神間の区間列車の運行も併せて担当しており、区間列車用のC10形なども配属されていた。1934年7月20日の吹田駅 - 須磨駅間の電化開業に伴い、これらの列車が電車化されたことから、C53形と入換用の6760形[14]以外の機関車は転出、1941年以降にC59形が配属されてC53形を置き換えるまで、C53形の全盛時代が続いた。この他、1934年9月の須磨?明石間電化開業まで同区間で暫定的に運転された、キハ41000形ガソリンカーも配属されていた。

C51形

C50形

C10形

C53形

6760形

B50形

C59形

キハ41000形気動車

明石操車場

超特急「燕」をはじめ、東京駅 - 神戸駅間の夜行急行など、神戸駅始発終着の優等列車を多く担当していたことから、オハ31系スハ32系オハ35系に属する、戦前の国鉄の客車を代表する各形式が配属されており、その中には展望車を筆頭に、寝台車食堂車二等車などが多く含まれていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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