明石 賢生(あかし けんせい、1943年 - 1996年)は、日本の編集者・実業家・カメラマン。
エルシー企画・群雄社・群雄新社・群雄社出版社長。アリス出版副社長。
自販機本・ビニ本・アダルトビデオといった各時代のエロメディアにおいて活躍した伝説の風雲児として知られる[1]。 1943年大分県生まれ。学生時代は全共闘(ブント系マル戦派)の活動家で、1968年にベトナム反戦運動の一環として闘われた東京王子米軍野戦病院反対闘争では逮捕されたこともある。
目次
1 経歴
2 部下
3 社風
4 脚注
5 参考文献
6 外部リンク
経歴
これと並行して下落合[2]のスナック「クレジオ」で店長を3年間務め、常連客の赤塚不二夫、平野甲賀、及川恒平、八木眞一郎、隅田川乱一らと顔馴染みになる[3]。また暴走族のスペクターやブラックエンペラーからの人望も集めるなど幅広い人脈を築いた[3]。
1975年、旧知の編集者である佐山哲郎を誘って自販機本出版社のエルシー企画を設立。武蔵野大門名義でヌードカメラマンも兼任し、スカトロ系エロ本の先駆けとなる『女子便所』シリーズやフェティッシュな接写写真・局部アップなどでエロ本の新境地を開拓、自販機本業界に旋風を巻き起こす。
1979年からは高杉弾・山崎春美編集の伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』のスポンサー役を務める。ちなみに内容について明石は「我関せず」の態度を貫き、創刊号では山口百恵宅のゴミ漁り企画「芸能人ゴミあさりシリーズ」を世に送り出す。
1980年、エルシー企画が自販機本最大手のアリス出版と合併し、同社副社長に就任するも同年辞職する。その後、アリス退社組を率いて高田馬場に群雄社出版を設立する[4]。
1981年2月、猥褻図画販売の疑いで群雄社に家宅捜索が入り逮捕される[5]。同年3月、明石逮捕の影響で『HEAVEN』は廃刊[6]。
1982年2月、山崎春美の ⇒スーパー変態インタビュー(スーパー変態マガジン『Billy』1982年2月号)でメディアに初登場する。
1982年9月には日本初のスカトロ専門誌『スカトピア』(群雄新社)を創刊する[7]。
群雄社では自販機本以外にビニ本や一般書にも進出するが、経営不振で1983年に倒産。
アダルトビデオメーカー「アトラスにじゅういち」の前身となるビデオ制作会社「ビップ」の代表取締役が最後の肩書となった[8]。
出版界に数々の伝説を遺し、1996年急逝。
「カネは持ってる者が払う」[3]「カネは出すが口は出さない」[9]が信条の太っ腹な経営者だったと伝えられている[10]。
部下
佐山哲郎(ex.エルシー企画) - エルシー企画・群雄社出版編集局長。編集者、文筆家、歌人、住職、浄土宗僧侶、官能小説家、漫画原作者。スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』の原作者。匿名はS(エス)。
大賀匠津(ex.エルシー企画) - グラフィックデザイナー。『Jam』創刊号より表紙デザインを担当。その後は一般誌からエロ本、広告まで幅広くデザインを手がけた。大賀が表紙を手がけた『ザ・ベストマガジン』の創刊号では大原麗子の顔に水をぶっかけ、その瞬間を表紙にするという斬新なデザインで100万部の金字塔を記録した。現在も各社雑誌のアートディレクターとして活躍中。
安田邦也(ex.エルシー企画) - エルシー企画→合併アリス出版→群雄社→VIP→アトラス21と明石が関わった全ての会社を渡り歩いた唯一の編集者。太田出版発行のサブカルチャー雑誌『Quick Japan』15号にインタビューが掲載。
岡克己(ex.エルシー企画) - 月刊誌『おかあさんなぜ?』写真部、エルシー企画専属のヌードカメラマンなどを経て1980年からフリーランス。以後エディトリアルを中心に活動、現在に至る。ライフワークで「日本の灯台」を撮り続けており、著書に『ニッポン灯台紀行』(世界文化社)がある。
高杉弾(ex.ジャム出版) - 伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長。ライター、評論家、写真家、旅行家、AV監督。現在は定職を持たず「メディアマン」というコンセプトのもと国際的な隠居生活を送りながら編集者、企画家、観光家、ステレオ写真家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家として多方面で活躍(していない)。競馬と散歩と昼寝と駄ボラが趣味の粋人。年間のうち3か月を南の島で過ごす[11]。著書に『メディアになりたい』(JICC出版局)がある。雑誌『Quick Japan』19号にインタビューが掲載。本名・佐内順一郎。
山崎春美(ex.群雄社) - 『Jam』編集者のち『HEAVEN』3代目編集長。